デルベントの陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 06:29 UTC 版)
「第三次ペルソ・テュルク戦争」の記事における「デルベントの陥落」の解説
627年の初めに西突厥とハザールの連合軍が「アレクサンドロスの門(英語版)」として知られるカスピ海に面したデルベントへと迫った。サーサーン朝によってこの地に新しく築かれていた要塞(ナリン=カラ(スペイン語版))は、北コーカサスからアルバニア(現在のアゼルバイジャン)の肥沃な大地へと至る唯一のルート上に存在していた。ソビエト連邦の歴史家のレフ・グミリョフは、アルバニアの軽武装の在地軍は統葉護可汗率いる重騎兵の大軍とは比較にならなかったと述べている。統葉護可汗の部隊はデルベントに猛攻撃を加え、アルバニアを蹂躙して徹底的に略奪した。デルベントの陥落と略奪は、この事件を目撃したと考えられているアルメニアの歴史家のモヴセス・カガンカトヴァツィ(英語版)によって詳細に記録されている。 「 海の波のようにテュルク人はチョーラ(デルベント)の町に襲いかかり、町を完全に破壊した。それはこの卑劣で見苦しく、住民を恐怖に陥れ、髪を女性のようにたなびかせた、吊り目で目蓋のない攻撃者の大群によってもたらされた。特に恐ろしいのは、雨のように矢を降り注ぐ巧みで強力な射手であった。そして獰猛な狼のように臆することもなく人々に襲いかかり、街の通りや広場で情け容赦なく切り倒した。彼らは虐殺された母親を抱きしめる子供にさえ同情せず、子供の血をミルクのように啜った。 」 難攻不落と考えられていたデルベントの要塞の陥落はアルバニア全域にパニックを引き起こした。アルバニアの部隊は首都のパルタウ(現在のバルダ(英語版))から撤退し、コーカサス山脈方面へ向かったものの、カランカトゥイク(Kalankatuyk)の村の近くで西突厥とハザールの部隊に襲われ、そこで殺害されるか捕虜にされた。カガンカトヴァツィの記録によれば、征服者はアルバニアに過酷な徴税体制を敷いた。 「 北からやってきた支配者はアルバニア全域に大混乱をもたらした。可汗はすべての種類の職人、特に金の採取、銀や鉄の精製、そして銅製品の製作に熟練した職人を支配するために彼らを監視する人間を送りこんだ。また、ペルシアによって伝統的に課されていたディドラクマの徴税に加えて、クラ川とアラス川を往来する物品や漁師に税を課した。 」
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