デビュー初期 & 日本 (1997 - 2002, 2004 - 2009)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:04 UTC 版)
「ロッキー・ロメロ」の記事における「デビュー初期 & 日本 (1997 - 2002, 2004 - 2009)」の解説
高校時代はアマチュアレスリングのフリースタイルで活躍し、ロサンゼルス郊外にて柔術を学ぶ。1997年10月よりプロレスラーになるべくトレーニングを開始し、1998年6月、サンバーナーディーノを拠点とするエンパイア・レスリング・フェデレーション(Empire Wrestling Federation、略称 : EWF)のヴィクターヴィル大会にて、ロッキー・ロメロとしてデビューを飾る。デビューして間もなく、同郷のリッキー・レジェスとタッグチーム、ロス・キューバニートスを結成。同タッグとしてEWFタッグ王座を獲得したのを皮切りに、アルティメット・プロレスリング(Ultimate Pro Wrestling、略称 : UPW)、インターナショナル・レスリング・カウンシル(International Wrestling Council、略称 : IWC)、ミレニアム・プロレスリング(Millennium Pro Wrestling、略称 : MPW)といったインディペンデント団体のタッグ王座を次々と奪取。各団体を転戦していた時、UPW参戦時に知り合ったジャスティン・マッコリーの誘いで、サンタモニカを拠点とする新日本プロレス・ロサンゼルス道場の門を叩く。同じく入門したレジェスと共に、アントニオ猪木の指導の下に練習の日々を過ごし、2002年10月より新日本が主催する後楽園ホール大会に出場。キューバニートス改めハバナ・ピットブルズとして、ジャック・ザ・ブル & ピノイ・ボーイと対戦し勝利を収めた。同時期に開催されたジュニア・トライアスロン・サバイバーでは、レジェス、アメリカン・ドラゴンとのトリオで出場したが一回戦で獣神サンダー・ライガー & タイガーマスク & ヒートに敗れた。翌々2004年5月にはジュニアヘビー級選手らによるリーグ戦、BEST OF THE SUPER Jr.に初出場。8月には短期間ながら全日本プロレスにも参戦。12月11日には闘龍門MEXICOが主催するヤングドラゴン杯に出場し岡田かずちか、新井注一郎、堀口ひろみを下して優勝した。 2005年5月より、ブラック・タイガー (4代目)の名義で新日本に参戦。C.T.Uサポートメンバーの一員として、ライバル的存在のタイガーマスクをつけ狙い、10月8日東京ドーム大会にて、IWGPジュニアヘビー級王座とNWA世界ジュニアヘビー級王座を賭けたダブルタイトルマッチとしてタイガーと対戦、暗闇脳天落としで勝利を収め二冠王に輝いた。その後は3代目タイガーマスクとして活動した経歴を持つ金本浩二を相手に両王座の初防衛に成功を収めたが、2006年2月19日両国国技館大会において4代目タイガーに敗れて両王座から陥落した。 2007年2月より新日本を離れると、リングネームをロッキー・ロメロに戻して、プロレスリング・ノアにセミレギュラー参戦し、GHCジュニアヘビー級タッグ王座挑戦(パートナーは石森太二)や、日テレG+杯争奪ジュニアヘビー級タッグ・リーグ戦に出場した(パートナーは青木篤志)。5月にはブラック・エンペラーなる覆面レスラーとしてZERO1-MAXにも参戦し、7月にはイノキ・ゲノム・フェデレーションのダーク・マッチにロッキー・ロメロとして出場。一方でアメリカの一部のインディー団体ではブラック・タイガー名義で出場するなど、リングネームを両立して活動していた。2008年1月には金丸義信の保持するGHCジュニアヘビー級王座に挑戦したが敗戦。ノアのツアー日程を消化し終えた後に同団体への参戦が途絶え、10月に新日本が主催するG1 TAG LEAGUEにネグロ・カサスとのタッグ、カリビアン・シンジケートとして出場した。 2009年4月5日、ブラック・タイガーとして新日本が主催するResolution ‘09にて4代目タイガーと対戦したがデストロイスープレックスホールドに敗れる。カンペオナート・コントラ・マスカラと銘打たれた試合に敗れたことで、自ら覆面を脱いで自身の正体を観衆に明かすと、最後は4代目タイガーと握手を交わして退場した。
※この「デビュー初期 & 日本 (1997 - 2002, 2004 - 2009)」の解説は、「ロッキー・ロメロ」の解説の一部です。
「デビュー初期 & 日本 (1997 - 2002, 2004 - 2009)」を含む「ロッキー・ロメロ」の記事については、「ロッキー・ロメロ」の概要を参照ください。
- デビュー初期 & 日本のページへのリンク