デイヴィッド・ミリバンドとは? わかりやすく解説

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デイヴィッド・ミリバンド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/23 20:43 UTC 版)

デイヴィッド・ミリバンド
David Miliband
生年月日 (1965-07-15) 1965年7月15日(60歳)
出生地 イギリス ロンドン
出身校 オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジ
所属政党 労働党
親族 エド・ミリバンド
公式サイト David Miliband, Member of Parliament for South Shields
影の外務・英連邦大臣
在任期間 2010年5月11日 - 2010年10月8日
内閣 ブラウン内閣
ブラウン第1次改造内閣
ブラウン第2次改造内閣
ブラウン第3次改造内閣
在任期間 2007年6月28日 - 2010年5月11日
環境・食料・農村大臣
内閣 第3次ブレア改造内閣
在任期間 2006年5月5日 - 2007年6月28日
コミュニティーおよび地方政府大臣
内閣 第3次ブレア内閣
在任期間 2005年5月5日 - 2006年5月5日
選挙区 サウス・シールズ選挙区
当選回数 3回
在任期間 2001年6月7日 - 2013年4月15日
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デイヴィッド・ライト・ミリバンド: David Wright Miliband1965年7月15日 - ) は、イギリスの元政治家。現在、国際救済委員会英語版委員長。庶民院議員を3期務めた。所属政党は労働党タインアンドウィア州サウスシールズ選挙区選出。2007年6月ブラウン政権誕生にともない、英史上2番目に若い外務大臣に就任した。元労働党党首で、経済学者、庶民院議員のエド・ミリバンドは弟である。

来歴

生い立ち

イギリス・ロンドンに生まれる。父はベルギー出身の政治学者であるラルフ・ミリバンド、母はホロコースト避難民であるポーランドユダヤ人マリオン・コザック英語版。兄弟が同時に内閣に入ったのは、1938年ダービー伯爵家出身のエドワード・スタンリー英語版とその弟オリヴァー英語版が入閣して以来のことである。ミリバンドの父方の祖父母も、祖父サムエル・ミリバンドがポーランド・ソビエト戦争で赤軍に入隊するまで、ワルシャワのユダヤ人街で生活していた。

ロンドンリーズで学んだのち、オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジへ入学し、哲学政治学経済学で優秀な成績を収めた。そして奨学生に選ばれ、1990年マサチューセッツ工科大学で政治学修士号を取得した。

政界へ

幼い頃はバスの車掌になるのが夢だったミリバンドであったが、最初に勤めたのは任意団体の全国協議会であった。1989年から1994年には公共政策研究所で研究員になって政策分析を、1992年から94年は社会正義を対象にした委員会の書記を務めた。1994年からは労働党党首になったトニー・ブレアの政策担当員になり、1997年イギリス総選挙での労働党のマニフェストの策定に大きく貢献した。

その選挙で労働党が勝利すると、ブレアはミリバンドを首相の政策諮問機関の長に任命し、2001年の総選挙までその任務にあたった。その頃アリスター・キャンベル英語版により、『サンダーバード』のキャラクターにちなんでブレインズというニックネームが付けられている[1]

若きホープ

2001年にサウスシールズ選挙区から出馬して当選し、庶民院議員となる。2006年には環境・食料・農村大臣英語版として第3次ブレア内閣に入閣を果たす。ブラウン内閣では、外務英連邦大臣に就任した。

党内では忠実なブレア派であり、ゴードン・ブラウンブラウン派にとって、その存在は大きな脅威であった。ブレア後継を巡る党首選挙で両派の対立が激化すると、ミリバンドやアンディ・バーナム英語版らは、党の分裂を避けるために無投票でのブラウンの党首・首相就任でまとめようとする、「ブラウンのためのブレア派」として党内融和に努めた。ブラウン内閣の外相就任に当たっては、党首選挙に出馬しなかった論功行賞ではないかという憶測もある。

ブラウン政権の支持率の低さも作用し、再びブレア派・ブラウン派の対立が激化する中、ブレア派においてミリバンドはその旗頭とされ、ポスト・ブラウンへの待望論が一層強まった。

2009年1月15日インドムンバイでのスピーチや『ガーディアン』紙への寄稿で、アメリカの「テロとの戦い(war on terror)」という概念は誤りであったと明言。異なる背景をもつ勢力をひとまとめにし、軍事力で抑え込もうとする方法の限界を指摘して、テロへの対処としてより多角的なアプローチを取ることの有効性を説いた[2]

2010年5月の総選挙で労働党は敗北して下野。その後行われた党首選挙に本命候補として満を持して出馬した。党首選では、第1ラウンドから第3ラウンドまで一貫して首位をキープしていたものの、決選投票で弟のエドに僅差で逆転され、落選した。党首選落選後、次の総選挙に出馬せず政界から引退すると表明した。

政界引退後

2013年9月より国際救済委員会英語版の委員長を務めている。

脚注

  1. ^ 「デービッド・ミリバンド (新しい年、注目のキーパーソン)」『ニューズウィーク』Vol.23, No.1 (2008/1/2・9)
  2. ^ “「テロとの戦い」は「誤り」、英外相がブッシュ米政権を批判”. AFP. (2009年1月16日). https://www.afpbb.com/articles/-/2558627?pid=3689784 2009年1月20日閲覧。 

外部リンク

公職
先代
ウィリアム・ヘイグ
イギリス影の外務・英連邦大臣
2010年
次代
イヴェット・クーパー
先代
マーガレット・ベケット
イギリス外務英連邦大臣
2007年 - 2010年
次代
ウィリアム・ヘイグ
先代
マーガレット・ベケット
イギリス環境・食料・農村大臣
2006年 - 2007年
次代
ヒラリー・ベン
先代
(創設)
イギリスコミュニティーおよび地方政府大臣
2005年 - 2006年
次代
ルース・ケリー英語版
議会
先代
デイヴィッド・クラーク英語版
サウス・シールズ選出イギリス下院議員
2001年 - 2013年
次代
エマ・ルウェル英語版

デイヴィッド・ミリバンド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 23:00 UTC 版)

2007年イギリス労働党党首選挙」の記事における「デイヴィッド・ミリバンド」の解説

環境食料および農村大臣労働党若手ホープ2007年春段階では、ブレアが彼を後継者みなしているのではないか周囲から立候補要請されているのではないかという憶測強かった。しかし、後に党首選立候補しないこと、ブラウン投票することを公式に表明したブラウンミリバンド立候補を最も恐れていたとも言われ、後のブラウン政権で彼が外務大臣という重要ポスト起用されると、このとき立候補控えたことへの論功行賞ではないのか、という憶測流れた

※この「デイヴィッド・ミリバンド」の解説は、「2007年イギリス労働党党首選挙」の解説の一部です。
「デイヴィッド・ミリバンド」を含む「2007年イギリス労働党党首選挙」の記事については、「2007年イギリス労働党党首選挙」の概要を参照ください。

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