ダンディ捕鯨遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:20 UTC 版)
「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の記事における「ダンディ捕鯨遠征」の解説
1892年から1893年のダンディ捕鯨遠征は、南極海でのセミクジラの生息域を突き止めて、その商業捕鯨の可能性を調査する試みだった。科学的観測と海洋学の研究も、バリーナ、アクティブ、ダイアナ、ポーラースターという4隻の捕鯨船で行われた。ブルースはヒュー・ロバート・ミルからこの遠征に推薦された。ミルはグラントンの時から知り合いであり、当時はロンドンの王立地理学会の司書をしていた。それに参加することは、医学の勉強ができなくなることだったが、ブルースは躊躇せず、助手のウィリアム・ゴードン・バーン・マードックと共に、アレクサンダー・フェアウェザー船長の下にバリーナで任務に就いた。4隻の船は1892年9月6日にダンディを出港した。 ブルースは、比較的短い遠征後の1893年5月にスコットランドに戻った。この遠征は主目的からいうと失敗であり、科学的作業については限られた機会しか得られなかった。セミクジラは見つからず、遠征の損失を少なくするために大量のアザラシの殺戮が命ぜられ、皮、油、脂肪が確保された。ブルースはその殺戮に加わると期待されたので、特に不快だった。この航海から得られた科学的成果は、ブルースの言い方で「惨めなショー」だった。ブルースが王立地理学会に宛てて書いた手紙では、「マスター(フェアウェザー船長)の総体的態度は科学的な仕事にとって好ましい状態とははるかに遠いものだった」と記していた。ブルースは海図に接することも拒否され、現象の起こっている正確な場所も特定できなかった。気象学など観測を行う場合には「ボートで」行うことを求められ、標本を作るために如何なる設備も宛がわれず、標本の多くは乗組員の不注意な取り扱いによって失われた。それでも、王立地理学会に宛てた手紙の最後には「これら全ての挫折にも拘わらず、有益で喜ばしい経験となったものに私を助けてくれたことで、学会に感謝しなければならない」と締め括っていた。ミルに宛てた手紙では、南極に再度行きたいことを説明し、「今回味わったことが私を貪欲にした」と付け加えていた。 ブルースは数か月の内にサウスジョージアに向けた科学的遠征の提案を行ったが、王立地理学会はその計画を支持しなかった。1896年初期、ノルウェーのヘンリク・ブルとカルステン・ボルクグレヴィンクと協力して、南磁極に到達する試みを検討した。これも実現には至らなかった。
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