ダンサーの道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 04:16 UTC 版)
モードはアルトゥール・ボックという彫刻家と出会い、彼との短い恋を通してギリシャ彫刻の持つ身体性を知った。1905年頃には彼の彫刻「サロメとヨハネの首」のモデルを務め、その経験が後の「サロメ」に生かされたとの推定がある。 フェルッチョ・ブゾーニとも知り合いとなり、彼のコンサートでマルセル・レミという人物に紹介された。リエージュ生まれのレミは音楽や彫刻などに造詣が深く、古代ギリシャに関する多くの知識を持ち合わせていた。レミが語る失われた古代ギリシャのダンス再生の話にモードは強い刺激を受け、ダンサーへの道に進むことを決意したと伝わる。彼女が目標としたのは、古代ギリシャの造形芸術の自由を再現することであった。 モードは2年にわたって図書館や美術館に通い詰め、古代ギリシャのポーズを研究した。モードは多くの場合裸足で踊り、ギリシャ風のドラペリー(ひだのある長い衣服)を着用することもあった。そして1903年に、ウィーンでダンサーとしてのデビューを果たした。このときモードが踊ったのは、メンデルスゾーンの『春の歌』、ショパンの『葬送行進曲』、シューベルトの『アヴェ・マリア』などで、後に彼女の得意とするレパートリーが含まれていた。 デビュー公演は好評で迎えられ、母イザベラも彼女のダンスの才能を認めて応援するようになった。イザベラはイザドラ・ダンカンをモードのライバルとして意識し、負けないようにと励ましを与えている。 モードのマネージャーとして、マルセル・レミが公演のプロデュースを行った。モードはヨーロッパの各地で踊ったものの、「ダンカンの亜流」という批評を受けるなど評価は低かった。デビュー以後の2年ほどは、モードにとって苦しい時期であった。
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