タモリの習性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:13 UTC 版)
タモリは芸能界へのデビュー当時、日本的な社会や伝統的価値観を激しく批判してきた。 『中日新聞』の1981年6月15日付の夕刊にはタモリとの一問一答が載せられている。その中で名古屋を槍玉にあげる理由を、タモリは、どちらかといえば実は東京も好きではなく大阪も好きではないと明かし、以下のように答えた。 なんとなく一歩離れて、内地として日本を見るようなことありますね。父も祖父も満州の生活が長くて、しかも道楽者。ひょっとしたら、その影響もあるかなあ。名古屋は日本で一番日本的なものが集約されてるような面もありますし、言葉がすごい。 — タモリ タモリの祖父母と両親は第二次世界大戦前に満州で暮らしていたといい、祖父は南満州鉄道の駅長を務めるなど地域の名士として活動、終戦前に本土に帰国したためソ連侵攻には巻き込まれずに済み、戦後は満州時代に残した財産を元手に不自由のない生活を送った。 一方、戦後に福岡県で生まれ育ったタモリは、家族から「満州にはよい思い出しかない、何一つ嫌な思い出がない」「いかに満州は素晴らしいのか」「それに比べて日本はつまらない。土地も狭く、食べ物はまずい、近所付き合いは窮屈」という自慢話を聞かされて育った。ライターの近藤正高はこうした生育環境の影響から、タモリの中で大都市や都会的な価値観を信奉する見方が養われるとともに、田舎を軽んじ、日本的文化を冷めた視点で捉える見方が養われたものと推測している。なお、タモリが田舎を忌避した理由とは「相手の心の中に平気で土足で入ってくる」ところだといい、都市生活者であっても本質的に田舎者と変わらない性質の持ち主と見做すと、容赦なく糾弾したという。
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