タタル部出身のブジル(断事官)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/11 02:48 UTC 版)
「ブジル」の記事における「タタル部出身のブジル(断事官)」の解説
チンギス・カンが勃興し始めた頃、タタル部のトトクリウト氏にネルゲイ(Nergei >紐児傑/niŭérjié)という人物がおり、弓矢の作成を得意とすることで知られていた。ある時ネルゲイとノヤンがチンギス・カンと偶然道で出会った時、チンギス・カンはネルゲイらが良い弓矢を携えているのを見て「誰がこれを作ったのか?」と訪ねた。そこでネルゲイは弓矢は自らが作ったものであると答え、その場で鳧を2匹射落とし、2本の矢とともにチンギス・カンに献上した。ネルゲイとノヤンはその後ネルゲイの住居に一度戻ったが、そこでノヤンはネルゲイの息子ブジルを気に入り、自らの娘を与えた。この一件を切っ掛けとして、ネルゲイとブジルの父子はチンギス・カンに仕えるようになった。このブジルを『モンゴル秘史』功臣表の「不只児」に比定する説もあるが、村上正二はチンギス・カンの治世には未だネルゲイが現役であって、その息子ブジルが千人隊長として記される妥当性は低いと指摘している。 ネルゲイ、ブジル父子はチンギス・カンの征服戦争に従事して戦功を挙げ、やがてネルゲイは「バートル(勇士)」の称号を与えられるに至った。中央アジア侵攻における戦いでは、ブジルは力戦奮闘したためいくつもの矢を受けてしまった。これを見たチンギス・カンはすぐに矢を抜かせたが、出血がひどくなりブジルは悶絶してしまった。そこでチンギス・カンは牛の腹を割いてその中にブジルを横たわらせたところ、ブジルは復調し一命をとりとめた。これはモンゴル高原でよく知られた緊急医療法であり、清代に至ってもモンゴル高原で用いられた記録が残っている。 1251年、モンケがモンゴル帝国第4代皇帝として即位すると、ブジルはマフムード・ヤラワチらとともに燕京等処行尚書省に配属された。この時ブジルはイェケ・ジャルグチ(也可札魯忽赤/断事官)の地位につけられ、また蔚州・定安を食邑として与えられたという。 ブジルには四人の子供がおり、それぞれ大元ウルスに仕えて活躍した。長男の好礼は南宋侵攻に従軍して昭毅大将軍・水軍翼万戸府達魯花赤の号を授かり、次男のベク・テムルは吏部尚書となり、3男の補児答思は雲南宣慰使となり、末子のブラルキは水軍翼万戸招討使となった。ブラルキの息子オルジェイ・ブカは遼陽省理問となった。
※この「タタル部出身のブジル(断事官)」の解説は、「ブジル」の解説の一部です。
「タタル部出身のブジル(断事官)」を含む「ブジル」の記事については、「ブジル」の概要を参照ください。
- タタル部出身のブジルのページへのリンク