タタル部の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:11 UTC 版)
1202年、タタル部のチャガン氏、アルチ氏、ドタウト氏、アルクイ氏らはテムジン・カンとダラン・ネムルゲスの地で戦ったが敗北し、ウルクイ川、シルゲルジト川の河畔でそのほとんどが捕虜となり、ことごとく根絶やしにされた。 タタル部族はチンギス・カンの父の仇であり、祖先の敵であったため、チンギス・カンは一人も生かしておかないよう命令し、女・子供はもちろん妊婦の腹を裂いてまで根絶やしにしていった。中にはチンギス・カンと親族の関係にあるタタル部出身者もいたが、その多くも殺された。そのため誰一人として、彼らを庇護したりせず、タタル人であっても自らの正体を明かしたりはしなかった。しかし、チンギス・カン自身もイェスルンとイェスゲンという2人の妃を娶ったし、チンギス・カンの弟であるジョチ・カサルもタタル部人の妻を娶っていた。チンギス・カンはジョチ・カサルにタタル部人1千人を殺すよう命じたが、ジョチ・カサルは妻のこともあり、半分の500人を殺して500人は匿った。こういうこともあって何人かのタタル部人は生き残ることができ、後の時代にはモンゴル帝国の譜代家人(オテグ・ボコル)に準ずる地位になる者もあらわれた。
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