スー・ゲートウェイ空港へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:09 UTC 版)
「スー・ゲートウェイ空港」の記事における「スー・ゲートウェイ空港へ」の解説
1953年にはターミナルビルの大規模増築が行われ、管制塔も建設された。 スーシティ路線を運航していたミッドコンチネント航空は1952年にブラニフ航空と合併し、スーシティ路線もブラニフ航空に引き継がれた。1965年にはブラニフ航空がBAC 1-11を投入し、これが、スーシティ空港へのジェット旅客機の最初の就航となった。 1986年、コンピューターメーカーのゲートウェイの資金提供により、スーシティ公営空港の改装が行われた。この時、新しい空港名が公募されてスー・ゲートウェイ空港へと改称された。 1988年には、3本ある滑走路のうちの滑走路22/04が閉鎖された。 1989年7月19日、スー・ゲートウェイ空港で大規模な航空事故(ユナイテッド航空232便不時着事故)が発生した。コロラド州デンバーのステープルトン国際空港からシカゴ・オヘア国際空港へ飛行していたユナイテッド航空のマクドネル・ダグラスDC-10型機が全ての油圧系統を喪失し、操縦翼面の操作ができなくなった。同機は、左右のエンジン推力の調整によりスー・ゲートウェイ空港へ向かった。操縦が困難な状況ながらも事故機は前年に閉鎖された滑走路22への着陸を試みたが、接地直前にバランスを崩して大破炎上した。 スー・ゲートウェイ空港における消防救助隊 (Aircraft rescue and firefighting ARFF) は第185戦術戦闘群が担当しており、部隊の全車両5台が出動し救助活動にあたった。さらに、スー・ゲートウェイ空港に就航していない大型機の緊急事態であったことから、地域緊急対応計画に従いスーシティ消防部の応援車両も加わったほか、スーシティと相互援助協定を結んでいた近隣自治体からの応援も集まった。 スー・ゲートウェイ空港では、被害者90人を想定した大規模な災害訓練が1987年10月に実施されており、本事故前月の1989年6月にも小規模な訓練が実施されていた。これらの経験は、現場や負傷者を受け入れた病院での救助活動に活かされた。乗客乗員296人のうち最終的に112人が死亡したものの、半数以上が救助された。この救助活動は、のちに連邦航空局により賞賛された。
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