スカパ・フロー一斉自沈
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「ドイツ海軍」の記事における「スカパ・フロー一斉自沈」の解説
詳細は「スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈」を参照 休戦交渉終結後にドイツ大洋艦隊の主力(74隻)は、中立国の港湾でなくイギリスのスカパフローに回航・抑留された。1919年5月7日、発表されたヴェルサイユ講和条約案は、抑留中の全艦艇を連合国に引き渡すこととし、ドイツに残されるものは僅か15,000名の兵と1500名の士官から成る海軍であった。許される艦艇数は最大排水量10,000トンの戦艦6隻、6,000トン以下の巡洋艦6隻、800トン以下の駆逐艦12隻、200トン以下の水雷艇12隻のみ。潜水艦と飛行機の保有は許されなかった。抑留艦隊司令官ルートヴィヒ・フォン・ロイター提督は、賠償艦として引き渡すことを潔しとせず、1919年6月21日抑留中の全艦艇に一斉自沈を命令した。しかし、その代償は大きかった。連合国はドイツ艦隊をいかに切り分けて自国海軍に組み入れるかを考えていたのに敗戦国のこの仕打ちで、イギリスはよりにもよって自国のお膝元、スカパ・フローで自沈をされたのだから面目は丸つぶれであった。 しかる後、連合国はドイツに対し「自沈した艦に匹敵する賠償」を強く要求し、60日以内に提出するよう厳命した。ドイツ海軍には自国海域を守るための最低限である弩級戦艦ナッサウ級4隻とヘルゴラント級4隻に軽巡洋艦「ピラウ」「ケーニヒスブルク」「グラウデンツ」「レーゲンスブルク」「シュトラスブルク」が召し上げられ、さらに海軍設備のうち浮きドック・港湾クレーン・タグボート・サルベージ船(救難船)・補給船など総計40万トンと全てのUボートと装備品が没収された。これらの艦艇・設備の輸送費はドイツの負担により連合国の各国の港に輸送され、連合各国に働きに応じて分配された。さらに建造中の艦艇は全て解体処分とされ、資材は商業活動目的にのみ利用された。 後に、この因縁の地に20年後の1939年10月14日、ギュンター・プリーン中尉指揮するUボートU47が侵入して停泊中のイギリス戦艦ロイヤル・オークを撃沈した。この知らせにドイツ国民の多くは20年前を思い、溜飲を下げた。
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