スイス方言学と言語接触・多言語併用
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「ユリエル・ワインライク」の記事における「スイス方言学と言語接触・多言語併用」の解説
コロンビア大学では、彼自身の個人的問題でもあった二言語併用の現象に早くから関心をもち、のちスイスに留学し、スイス方言学の第一人者であった、やはりユダヤ系のヤーコプ・ユート(Jakob Jud)に学んだ。この言語接触と多言語併用というテーマで1949年に修士論文を執筆、1951年コロンビア大学に提出したが、やはりその後も生涯、言語干渉研究の理論化を試みた。 特にアンドレ・マルティネの指導を受けた博士論文「二言語併用研究の諸問題 ― 特にスイスの場合」(1953年)は、言語接触の擦に生じる干渉の例を、音声・形態・統語・語彙の面での理論的解析だけでなく、二言語併用者の心理面・社会文化的側面にも研究の対象を広げて高い評価を受け、公刊版の"Languages in Contact"は広く読まれることになった。 彼は、「二言語併用研究の諸問題」を刊行した1953年以来、1960年まで言語学雑誌"Word"の、また1956年から1961年までは"Modern Language Association of America"の編集委員として活躍。 スイスの言語事情の詳しい観察とスイス方言学からの影書を受け、特定地域の個別的現象の記述を行なう伝統的な方言学の土壌に、構造主義的な視点を取り込むべきだと主張、1954年に "Word" 10号に論文"Is a Structural Dialectology Possible?(構造主義的方言学は可能か)"を発表、その後の方言記述の方法に決定的な方向を与えた。 夭折した、といわれるが、マーヴィン・ハーツォグが遺志を継いでいる。
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