ジャニーズJr.期
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1995年に13歳でジャニーズ事務所のオーディションを受験・合格し入所。同オーディションにて同日に入所し、後にタッキー&翼として滝沢と共にデビューした今井翼はオーディション時の滝沢について「目つきが人と違った」と振り返っており、その時点で貧困から抜け出して人生を変えるという意志や覚悟が出来上がっていたとされている。初取材を受けるための外出日に母親に「これからマイナスなことは絶対言わない」と伝えたという。 滝沢のジャニーズJr.加入と激闘によってジャニーズJr.は激変し、ジャニーズJr.はバックダンサーが主な役割だったが単独でコンサートを行うようになり、ゴールデンを含む3個の冠番組が放送されるなど一大人気ユニットにまで変化し「ジャニーズJr.黄金期」と呼ばれるようになった。事務所の合宿所にて相葉雅紀・二宮和也・松本潤らと生活していたこともあった。 14-15歳頃よりジャニーズJr.のリーダーに任命され、後の嵐と関ジャニ∞のメンバーや山下智久・生田斗真・風間俊介ら約120人をまとめ、「西のすばる」と称された渋谷すばるに対し「東のタッキー」と称された。入所1年目よりジャニーズJr.オーディションの面接官にも任命され、横山裕らが参加した回にも立ち会っていた。滝沢の人気は絶大で凄まじく、雑誌のセンター位置・ドラマ主演・ドームでのコンサート・ジャニーズJr.冠番組MCなど大役を破竹の勢いで次々と制覇し、破格の存在であった。 しかしながら滝沢は「とにかく静かで常に隅っこにいる子」「人前に立つことも苦手なタイプ」であったとされており、本人もリーダーは元々苦手であったことを語っている。リーダーとなったジャニーズJr.では苦労が多かったというが、せっかく用意してもらったチャンスを無くしたくなく続けたとされている。先輩からは「何でお前の言うことを聞かなきゃいけないんだ」と返答され、同期からは「何で俺はマイクを持てないんだ」と苦情を言われたこともあるといい、倒れて点滴を打つほどのハードスケジュールでも相談できる仲間はいなく孤軍奮闘していたとされている。ハードスケジュールが続いたが「自分でどこへでも行き、何でもやり、その場でお題を出されて、全力を出すという対応力」が鍛えられたと語っている。Jr.メンバーがトラブルを起こすと代表して謝りに行くなど責任も負っており、その大きさに耐え切れず16歳時に1度引退を考えたこともあるというが、母親の「帰ってきなさい」という言葉で逆に思い止まったという。 入所約半年後に『木曜の怪談』で初主演となり、1998年に『ニュースの女』で人気を得、1999年に『魔女の条件』で主演で演じ、話題となった。
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