シャー制度の転覆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 05:19 UTC 版)
詳細は「イラン進駐_(1941年)」を参照 1941年のドイツのソビエト連邦侵攻により、同盟関係となったイギリスとソビエトはイランへ注目した。イギリスとソビエトは、新しく開業したイラン縦貫鉄道をペルシア湾からソビエト連邦へ物資を輸送するための魅力的なルートとして考えた。イギリスとソビエトはイランへ圧力を加え干渉することにより、イラン(及びイギリスの場合イラクも)を軍事及び輸送手段に利用する許可を得ると言う譲歩を引き出そうとした。特にイギリスとの緊張の増加はテヘランで親ドイツの暴動を引き起こした。1941年8月レザー・シャーは、ドイツ人の国民を国外退去させることを拒否し、明確にドイツ側につこうとした。そのため、イギリスとソビエトはイランに侵攻してシャーを逮捕し、南アフリカに亡命させた。これにより、両国はイランにおける鉄道の支配を得ることができた。 1942年、イギリスやソビエトと同盟することになったアメリカ合衆国は鉄道の維持と管理を行なうための部隊を送り込んだ。イギリスとソビエトの政府はレザー・シャーの政治制度を崩壊させ、立憲政治体制を制限した。英露はレザー・シャーの息子である モハンマド・レザー・パフラヴィーが帝位を継ぐことを許した。 新たな皇帝(シャー)は、自分の国が完全に独立し、戦争終了時から6月以内に部隊を撤収すると言う条件と交換に、イギリス及びソビエトとの非軍事輸送協力の協定を結ぶことに同意した。1943年9月には、シャーはドイツに対して宣戦布告を行い、連合国に彼の国の名を加え連合国共同宣言に署名した。2ヵ月後に、彼はテヘラン会談のホストを務めた。 外国の部隊の存在は、社会的変化を加速し、国内での国家主義の活動が活発となった。1946年に、ホセイン・ゴル・エゴラブ (Hossein Gol-e-Golab) は民族主義の歌「ああイラン(Ey Iran)」を発表した。この歌は、ゴラブがイラン人の八百屋がアメリカ兵により暴行を受けている風景を市場で目撃したと言う事件を元に作り出したものと言われている。
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