サマリアの女
作者木崎さと子
収載図書小説 聖書の女性たち
出版社日本キリスト教団出版局
刊行年月2004.9
サマリアの女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/22 18:41 UTC 版)
サマリアの女(サマリアのおんな、英語: Samaritan woman at the well)は新約聖書のヨハネによる福音書(4:1-42)に登場するサマリア人の女。サマリヤの女とも表記される。彼女は、サマリアにあるヤコブの井戸のほとりでイエスと会話をし、この人が来るべきメシアかもしれないと思った。正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会の伝統では、彼女は「光り輝く者」を意味するフォティニ(Φωτεινή)という名前で聖人として崇敬されている。
注釈
- ^ 「イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた」<4:6>。ヨハネ福音書がイエスの神性を強調する福音書であることはよく知られている。しかし、ヨハネ福音書は時折このように、イエスの人間性に特別、言及することも多い。イエスは旅に疲れるばかりでなく、涙を流し<11:35>、熱く心を動かす<11:33>、<12:27>、<13:21>。[1]
- ^ この「主」は神を表す意味の主ではなく、男性に対する尊敬を表す呼びかけの敬称である。この時点で、女はイエスを神的存在であると思ってはいない。[8]
- ^ 「わたしが、それである」は、直訳では単に「わたしはある(在る)」。ギリシャ語では「エゴー・エイミ」であるが、ヨハネ福音書の固有な表現で、出エジプト記<3:14>の「わたしは在るものである」という旧約聖書的ヘブライ語表現に基づくものであり、イエスの神性を表している。ヨハネ福音書<8:24、28、58>の「わたしがそういう者であること」、「わたしは、いる」<13:19>の「わたしがそれであること」の表現も同様である。[13]
- ^ マタイによる福音書(口語訳) <16:16>を参照。
- ^ マルコによる福音書(口語訳) <14:61>を参照。
出典
- ^ フランシスコ会聖書研究所訳注『新約聖書』p.305注(2)
- ^ a b John Calvin. John Calvin Commentary on John 1-11
- ^ a b 田川建三 『新約聖書 訳と註 第五巻 ヨハネ福音書』作品社、2013年、14-18,208-261頁。ISBN 978-4-86182-139-4。
- ^ 『ヨハネの福音書』日本キリスト教団出版局、2005年、153-178頁。ISBN 978-4818405400。
- ^ ジョン・F・マッカーサー(2017)p.222
- ^ 『旧約聖書神学用語辞典 響き合う信仰』日本キリスト教団出版局、2015年、210-212頁。ISBN 978-4-8184-0916-3。
- ^ 織田昭 『新約聖書のギリシア語文法 第1分冊』教友社、2003年、274-277頁。ISBN 9784902211009。
- ^ フランシスコ会聖書研究所訳注『新約聖書』p.305注(5)
- ^ ジョン・F・マッカーサー(2017)pp.222-223
- ^ 加藤常昭(2000)pp.185-191。
- ^ ジョン・F・マッカーサー(2017)p.229
- ^ ジョン・F・マッカーサー(2017)p.227
- ^ フランシスコ会聖書研究所訳注『新約聖書』p.307注(10)、p.333注(8)
- ^ ジョン・F・マッカーサー(2017)p.228
- ^ ジョン・F・マッカーサー(2017)p.230
- 1 サマリアの女とは
- 2 サマリアの女の概要
- 3 参考文献
- サマリアの女のページへのリンク