サフラ【Zafra】
サフラ
サフラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 09:10 UTC 版)
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州 | ![]() |
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県 | ![]() |
面積 | 62.6 km² |
標高 | 508m |
人口 | 16,828 人 (2014年) |
人口密度 | 268.82 人/km² |
北緯38度25分00秒 西経6度25分00秒 / 北緯38.41667度 西経6.41667度座標:
北緯38度25分00秒 西経6度25分00秒 / 北緯38.41667度 西経6.41667度 |
サフラ(スペイン語: Zafra)は、スペイン・エストレマドゥーラ州バダホス県のムニシピオ(基礎自治体)。
歴史
カステリャール山脈の洞窟の中にピクトグラムが発見されていることから、先史時代から定住者がいたと推測されている。近郊のベレン礼拝堂では青銅器時代の砦が発見されている。また、ムーア様式、ゴシック様式、ルネサンス様式の各様式の建築物の宝庫とされる[1]。
サフラ周辺地域では、伝説的なセゲダ(現在のサラゴサ)を思い出させる古代ローマの別荘が多くあり、これがサフラの町の元となった。
中世、サフラはセビーリャとバダホスの封土に二分される境に位置した。1030年、カステリャ山脈に防御的砦が築かれた。この砦は、1094年にムーア人の地理学者アブー・アブダッラー・アル=バクリによってサイラ・アビ・ハッサン(Sajra Abi Hassan)と名付けられていた。アラブ人たちは町をサフラ(Safra)またはカフラ(Cafra)と名付け、これが現在のサフラの名称へと発展した。
レコンキスタ時代には1229年にいったんはレオン王アルフォンソ9世によって解放され、再びアラブ人に奪取されるものの、最終的にフェルナンド3世が占領した。
エンリケ3世がサフラをゴメス・スアレス・デ・フィゲロアへ授けたことで大きな変化が訪れた。ゴメスは王妃の侍従であり、サンティアゴ騎士団長の息子であった。ゴメスの子ロレンゾは、サフラを自分の封土フェリアの中心地とした。彼は防衛目的で城壁を築き、近隣の自治体、商人、旅行者を保護した。城壁の建設は1449年まで続いた。1437年、ロレンゾは市で象徴となる建物エル・アルカサルを自邸として建設するよう命じた。加えて、ロレンゾはサンティアゴ騎士団の病院を興し、クラリサス・デ・サンタ・マリア・デル・バーレ修道院を、一族の霊廟とするために創建した。1460年、エンリケ4世はサフラを県と同地位の地区とし、ロレンゾにアルコネラとラ・モレラの村を封土として授けた。
16世紀と17世紀、市は近代化された。例として、アルカサルがオーストリア風に改造され、新たな教会が完成した。この近代化全てが、5代目のフェリア伯ゴメス3世・スアレス・デ・フィゲロアが、フェリペ2世時代に国に貢献した褒美に1567年にフェリア公に格上げされた時代に行われた。
17世紀、フェリア公領はプリエーゴ侯領と統合された。18世紀には、プリエーゴ侯領はメディナセリ公領にまとめられた。
サフラは、周辺の農業地帯に対して、常に工業と商業の都市である。商業の基盤は祭りで、1395年以来続く聖フアン祭、1453年以来の聖ミゲル祭が行われている。
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サンタ・マリア・デ・ラ・カンデラリア教会
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ロザリオ教会、1950年
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グランデ広場
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フェリア公爵邸の中庭
出身人物
- ルイ・ロペス・デ・セグラ : チェスプレーヤー。
脚注
外部リンク
- 公式ウェブサイト (スペイン語)
「サフラ」の例文・使い方・用例・文例
- サフラン色
- サフラン植物に由来して、痛風を治療するのに用いられる鎮痛薬
- 非常に濃い味付けをされた地中海のスープ、またはシチューで、何種類かの魚介類とトマト、たまねぎ、セイヨウネギで作られ、サフラン、にんにく、ハーブで味付けされる
- 甲殻類貝・鶏肉を米に混ぜ、サフランで香りをつけた料理
- サッサフラスの木の根の皮を乾燥させたもの
- 東半球産のサフランの辛い柱頭を乾燥させたもの
- サルサ根のエキス、またはカバ油とサッサフラスで香りをつけた炭酸水
- サッサフラス属
- サッサフラスの根皮から採る油
- 時にイヌサフラン科に分類される
- サフランモドキという植物
- 犬サフランという植物
- サフランという植物
- サッサフラスという植物
- サフラワーオイルという食用油
固有名詞の分類
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