コニー・マックとの再会
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「1946年のメジャーリーグベースボール」の記事における「コニー・マックとの再会」の解説
5年前にアスレチックスを訪ねてコニー・マック監督に認められた大学生のルー・ブリッシーは、入団を希望したが、大学を卒業してからとコニー・マックに諭されて、自分の大学に戻ったが、翌年に日本軍の真珠湾攻撃からアメリカが参戦すると同時に志願して兵役に就いた。1944年12月、イタリア戦線にいたブリッシーは歩兵伍長になっていたがボローニャ市で幕営していた時にドイツ軍の砲弾を受けて瀕死の重傷となった。野戦病院で応急処置を受けてナポリの病院に運ばれて軍医から左脚の切断を告げられた。ブリッシーは「お願いです。左脚を切らないで下さい。私は野球選手です。戦争が終わったらアスレチックスで投げるんです。お願いです。」と懇願すると、このブルーベイカーと名乗る軍医は無類の野球好きでインディアンスのファンで、「それならば何とかして切断しないで手術で治す方法を考えよう。だが手術は大変で相当な忍耐がいる。覚悟するか」と言うとブリッシーは頷いた。それからが彼にとって大変な日々となった。左脚のスネが12センチにわたって骨が粉々になっていたからだ。本国に帰ってから病院を転々としながら合計23回の手術を行った。ブルーベイカー軍医も一緒に回っていた。彼は従軍してからコニー・マックに手紙をずっと送り続け、負傷し手術を受けている時も手紙を送り続けた。コニー・マックも返事を出し「アスレチックスには君の席がある」と書き、「監督命令だ。すみやかに回復せよ。負けじ魂を失うな」と書いて、それがブリッシーを奮い立たせた。そして1946年7月のある日にブリッシーはアスレチックスの球団事務所を訪れた。5年ぶりのコニー・マック監督との再会であった。約束通りブリッシーのユニフォームが用意されていて着たが、しかし彼はまだこの時は松葉杖をついていた。ブリッシーは「もう一度最後の手術をします。来年春には戻ってきます。」と言うとコニー・マックは了解した。しかし球団事務所の大半の職員はあれでは無理と考えていた。
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