ケータイで繋がるほたるぶくろたち
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評 言 |
携帯電話は便利な道具である。相互の会話はもとよりメール、インターネットで大勢の他人と繋がることができる。この携帯をうまく使いこなしているのが、いまどきの若者だろう。歩きながら、中には自転車に乗りながら器用に操作している。人の波をよけ街角を曲がりながら延々と操作しているのに感心さえしてしまう。 今やこの手の機器はかぎりなくパソコンに近づき、各種情報の収集から音楽や映画を手軽に楽しみ、また画像と文字による会話も自在にできるまでに進化した。これらの機能を自在に使いこなしているのもまた、若者たちだ。ことほど最先端の技術がごく身近にあふれ、生活上なくてはならないツールになってしまった。 掲句の「ケータイ」のカタカナ表示から、すぐさま右のような若者の日常的な生態が脳裏に浮かんだ。このような現状や風俗をやや呆れ気味にカタカナ書きしているのである。 たしかに、若者たちが一心に携帯を操るそのさまは、ホタルブクロのひとつひとつの花のなかで蛍が光を点滅させているような印象である。「ほたるぶくろ」は、外部との情報交換が携帯ひとつで繋がっている彼らの世界、宇宙そのものなのだ。こうした閉じられた個々の世界はではナマな人間同士の血の通った交感はもはや行われない。カタカナ表記の掲句は、そこまで思わせてしまう。 さらに、なにも若者に限らず人間そのものが、目には見えない壮大かつ得体の知れないネットワークに繋げられている。途方もない時代への予感といったことまで言っているのではないか、と思うのだが読み過ぎか。 いずれにしろこの句は、現代の若者の生態を切り取るとともに、われわれ現代の人間が置かれている状況を憂い、抒情を滲ませながら象徴的に詠んだ一句である。 撮影:青木繁伸(群馬県前橋市) |
評 者 |
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備 考 |
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