グリトビケンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 17:33 UTC 版)
「サウスジョージア侵攻」の記事における「グリトビケンの戦い」の解説
1982年4月1日にアルゼンチン軍によるフォークランド諸島侵攻が起こった同日リース港に陣取っていたアルゼンチン海兵隊隊員らは国旗掲揚式を行い、国歌斉唱後に、一方的にサウスジョージア島がアルゼンチン施政下に入ったことを宣言。翌日より島都グリトビケンの制圧作戦を開始した。 4月2日深夜、アルゼンチン海兵隊は選抜された40名の海兵隊隊員を砕氷艦「バイア・パライソ」に移乗させ、援護として同海域に到着していたアルゼンチン海軍フリゲート艦「ゲリコ」と合流して沿岸を偵察しつつ、グリトビケン近海に接近した。 4月3日11時半頃、制圧作戦の指揮官であるアルゼンチン海兵隊大尉は「バイア・パライソ」よりグリトビゲンのイギリス軍部隊に向け降伏勧告を無線で行う。グリトビゲン駐在部隊の指揮官であるイギリス海兵隊中尉は時間の猶予をアルゼンチン側に求めるがアルゼンチン側は拒否。直後に「バイア・パライソ」より制圧部隊であるアルゼンチン海兵隊員を乗せたアルエットヘリコプター1機が発進。同時にフリゲート艦「ゲリコ」がグリトビケン港、入江の方面に進出を開始した。 グリトビケンの間近、キングエドワードポイント埠頭よりアルエットヘリコプターが着陸しアルゼンチン海兵隊を降ろし始めると、イギリス海兵隊中尉が埠頭に出向きアルゼンチン側に降伏勧告の拒否、徹底抗戦を伝え、自軍陣地に戻った。アルゼンチン軍が発砲したのを皮切りに戦闘が開始された。 アルエットヘリコプターに続いてピューマヘリコプターが「バイア・パライソ」より発進し、兵員を降ろそうと埠頭に接近したが、イギリス海兵隊はこのヘリに小銃と機関銃による集中砲火を浴びせた。結果、ピューマヘリコプターは損傷して操縦不能になり、付近に不時着した。これにより、ヘリに搭乗していたアルゼンチン兵2名が戦死、4名が負傷した。 アルゼンチン海兵隊はイギリス海兵隊側の激しい銃撃に前進を阻まれ、フリゲート艦「ゲリコ」へ支援を求めた。 「ゲリコ」はまず、20mm機関砲による銃撃を行い、さらに40mm機関砲での射撃も行って上陸したアルゼンチン海兵隊を支援をした。この攻撃に関わらず、イギリス海兵隊は怯まずに「ゲリコ」に対しても小火器による銃撃を行った。「ゲリコ」は主砲である100mm砲の砲撃を行おうと一旦沿岸より離れようとしたが、直後に対岸からイギリス海兵隊による84mm無反動砲と携行式ロケットランチャーによる砲撃が行われ被弾。電装ケーブルが切断され、エグゾセ対艦ミサイルの発射装置や100mm主砲のマウントが破損して使用不能に追い込まれ、40mm機関砲マウントも損傷し、乗員5名が負傷、1名が死亡した。 このようにイギリス軍守備隊はアルゼンチン軍側に対して激しい抵抗を行ったが弾薬が尽き掛け、距離をとった「ゲリコ」による40mm機関砲による射撃が再開したことで抵抗が困難になり、負傷者も出たことから守備隊指揮官であるイギリス海兵隊中尉は降伏を決断。約2時間に渡った抵抗は終わり、サウスジョージア島はアルゼンチンによって掌握された。 この戦闘でイギリス側は負傷者1名のみだったが、アルゼンチン側は3名が戦死、9名が負傷した。
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