クロアチア独立国と大日本帝国の関係とは? わかりやすく解説

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クロアチア独立国と大日本帝国の関係(1941〜1945年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:11 UTC 版)

日本とクロアチアの関係」の記事における「クロアチア独立国と大日本帝国の関係(1941〜1945年)」の解説

1941年4月10日クロアチア独立国ユーゴスラビア王国からの独立宣言同年6月7日大日本帝国クロアチア独立国独立承認。同15日クロアチア独立国日独伊三国同盟参加し、続く26日には日独伊防共協定にも加わり日本クロアチア両国の間に強固な同盟関係築かれた。しかし、クロアチアは、同じく日本同盟結んでいたイタリアダルマチア領土問題抱えていたため、日本イタリアへ外交配慮重視し1943年9月8日イタリア連合国無条件降伏して枢軸国から離脱するまで、クロアチア国内大使館在外公館設置しなかった。 1943年12月15日ベルリン駐在していた日本の外交官、三浦和一と橋爪三男両名が、クロアチア首都ザグレブ市内ホテル借りて帝国代表部事務所開設簡素ながらも、この事務所は、日本独立国としてのクロアチア設置した最初在外公館である。翌1944年2月11日付で、日本は在クロアチア帝国公使館開館し代表部から公使館昇格し三浦和一が同公使館代理公使就任した1945年4月29日ザグレブ市内昭和天皇誕生日パーティ開かれるなど、日本クロアチアの間には友好関係保たれていたが、その前日28日にはベニート・ムッソリーニ殺害の上死体晒し者にされ、天皇誕生日翌日30日にはアドルフ・ヒトラー自殺するなど、欧州における枢軸国劣勢覆いがたくなっていた。そのため、三浦代理公使らは、翌5月5日までに重要書類焼却した後、同日帝国公使館閉鎖された。同8日クロアチア独立国パルチザン連合国側攻勢支えきれず崩壊しユーゴスラビアに再併合されるに至る。これにより、日本クロアチア同盟関係もまた同時に解消された。

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