クロアチア独立国と大日本帝国の関係(1941〜1945年)
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1941年4月10日、クロアチア独立国はユーゴスラビア王国からの独立を宣言。同年6月7日、大日本帝国はクロアチア独立国の独立を承認。同15日、クロアチア独立国は日独伊三国同盟へ参加し、続く26日には日独伊防共協定にも加わり、日本とクロアチアの両国の間に強固な同盟関係が築かれた。しかし、クロアチアは、同じく日本と同盟を結んでいたイタリアとダルマチアの領土問題を抱えていたため、日本はイタリアへの外交配慮を重視し、1943年9月8日にイタリアが連合国に無条件降伏して枢軸国から離脱するまで、クロアチア国内に大使館も在外公館も設置しなかった。 1943年12月15日、ベルリンに駐在していた日本の外交官、三浦和一と橋爪三男の両名が、クロアチアの首都ザグレブ市内のホテルを借りて帝国代表部の事務所を開設。簡素ながらも、この事務所は、日本が独立国としてのクロアチアに設置した最初の在外公館である。翌1944年の2月11日付で、日本は在クロアチア帝国公使館を開館し、代表部から公使館に昇格し、三浦和一が同公使館の代理公使に就任した。 1945年4月29日にザグレブ市内で昭和天皇の誕生日パーティが開かれるなど、日本とクロアチアの間には友好関係が保たれていたが、その前日28日にはベニート・ムッソリーニが殺害の上、死体を晒し者にされ、天皇誕生日の翌日30日にはアドルフ・ヒトラーが自殺するなど、欧州における枢軸国の劣勢は覆いがたくなっていた。そのため、三浦代理公使らは、翌5月5日までに重要書類を焼却した後、同日、帝国公使館は閉鎖された。同8日、クロアチア独立国はパルチザンら連合国側の攻勢を支えきれず崩壊し、ユーゴスラビアに再併合されるに至る。これにより、日本とクロアチアの同盟関係もまた同時に解消された。
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