クリコヴォの戦い
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 08:26 UTC 版)
クリコヴォの戦い(ロシア語:Куликовская битваまたはБитва на Куликовом поле)は、1380年、モスクワ大公ドミートリー1世(ドミートリー・ドンスコイ)の率いるルーシ諸侯連合軍が、ジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い[注釈 1]。
注釈
- ^ ドミートリー・ドンスコイはモスクワ公ないしモスクワ大公としてはドミートリー1世、ウラジーミル大公としてはドミートリー4世である。
- ^ ヴォジャ河畔の戦いはジョチ・ウルス軍・モンゴル軍に対して、モンゴルのルーシ侵攻(バトゥの大西征)以来はじめてロシア側が勝利した戦いであった。加藤一郎「ロシア古代中世史」
- ^ リトアニア大公ヨガイラはクリコヴォ戦後の1386年にポーランド王となり、ヤゲロー朝を創始してヴワディスワフ2世を名乗った。
- ^ 1326年、モスクワ大公イヴァン1世は、全ルーシの最高位聖職者で当時はウラジーミルにいたキエフ府主教をモスクワに迎え入れ、1328年にはモスクワに「キエフ及び全ルーシの府主教」を遷座させることに成功している
- ^ ドミートリーは、従来の慣例を破ってハンの意向を問うことなく長男のヴァシーリー(ヴァシーリー1世)を後継者と定め、1389年の遺言状においては、将来、ジョチ・ウルスに何かがあったから、貢納支払いを停止するよう指示し、ウラジーミル大公国をモスクワの世襲する領地であると述べている。栗生沢(2002)p.94
出典
- ^ Разин Е. А. История военного искусства VI — XVI вв. С.-Пб.: ООО «Издательство Полигон», 1999. — 656 с. Тираж 7000 экз. ISBN 5-89173-040-5 (VI — XVI вв.). ISBN 5-89173-038-3. (Военно-историческая библиотека)[1]
- ^ a b L. Podhorodecki, Kulikowe Pole 1380, Warszawa 2008, s. 106
- ^ Карнацевич В. Л. 100 знаменитых сражений. — Харьков., 2004. - стр. 139
- ^ Мерников А. Г., Спектор А. А. Всемирная история войн. — Минск., 2005.
- ^ a b c d e f チャノン&ハドソン(1999)p.26
- ^ a b c d e 栗生沢(2002)pp.92-94
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 加藤一郎「ロシア古代中世史」
- ^ a b c d e 井上&栗生沢(1998)pp.431-432
- ^ a b c d 和田(2001)pp.38-41
- ^ 今井&栗生沢(1998)pp.427-430
- 1 クリコヴォの戦いとは
- 2 クリコヴォの戦いの概要
- 3 影響
- 4 ギャラリー(17世紀の本の挿絵より)
- 5 外部リンク
固有名詞の分類
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