ギャラリーの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/04 08:47 UTC 版)
「ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー」の記事における「ギャラリーの歴史」の解説
1811年にブルジョワが死去し美術コレクションが遺贈されたが、ブルジョワが残した遺言には、自身の友人の建築家ジョン・ソーンの設計による、コレクションを収蔵する新しいギャラリーを建設して大衆にコレクションを公開することという条件がついていた。そしてギャラリーの建築費用として2,000ポンドの遺産も残されていた。 ソーンがダリッジ・ピクチャー・ギャラリーの設計に採用した、天窓を通じた太陽光を光源とした続き部屋の展示室というシンプルかつ基本的なデザインは、以降の美術館の設計に大きな影響を与え続けることになる。当時はダリッジ・カレッジ・ピクチャー・ギャラリー (The Dulwich College Picture Gallery) と呼ばれた美術館は1817年に開館した。ソーンの設計どおりに、展示されている絵画は太陽光によって間接的に照らし出され、油彩画を鑑賞する場所として最適な効果が与えられている。20世紀のアメリカのモダニズム建築家フィリップ・ジョンソンもこのギャラリーを「ソーンは我々に絵画の展示方法を教えてくれた」と評価した。 ブルジョワとデザンファン、そして絵画の一部を寄贈したデザンファンの細君は、ギャラリー西棟中央のマウソレウムに埋葬されている。ギャラリー西側に沿ってソーンが救貧院として設計した建物があるが、この建物は1880年にチャールズ・バリー・ジュニア (en:Charles Barry, Jr.) が展示場所へと改築した。ギャラリー東部分には1908年から1938年にかけて、E.S.ホールの設計で建物が増築されている。 ギャラリー西棟とマウソレウムは第二次世界大戦時の1944年7月12日にドイツ軍のV1飛行爆弾によってひどい損害を受け、埋葬されていた三人の骨はギャラリー正面の芝生に散乱したといわれている。その後ギャラリーはオースチン・バーノンらの手によって修復され、1953年4月27日に王太后エリザベス来臨のもとで再開館がなされた。 1999年にはアメリカ人建築家リック・マザー (en:Rick Mather) が担当した、カフェ、教育施設、階段式講堂、新しいエントランス、ガラス張りの通路といった増改築が行われ、礼拝堂とダリッジ・カレッジも所属する慈善団体アレンズ・カレッジ (en:Alleyn's College) のオフィスがギャラリーと結ばれた。ソーンが設計したオリジナルの部分にも修復されている箇所があり、増改築が繰り返されている間に変更されてきた。マザーが担当した増改築部分が完成し、公開されたのは2000年5月25日のことだった。
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