キンタンポ文化の研究史と年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 09:59 UTC 版)
「キンタンポ文化」の記事における「キンタンポ文化の研究史と年代」の解説
キンタンポ文化の年代については、O.Davisが紀元前500年ごろに始まったと主張していた。この議論は、さまざまに批判されたが、放射性炭素年代測定の成果によって1970年代段階には決定的に受け容れられなくなっている。森林地帯やはるかガーナの北方にキンタンポ文化と同時に繁栄していなければならないはずの先史文化はおそらく何もないことがわかっている。 C.Flightがキンタンポ及びその周辺を調査する以前にボルタ川流域調査計画の一環として1965年にMathewsonによってブラックボルタ川のChukoto遺跡が緊急調査された。Chukotoではじめてわかったことは、膨大で典型的な土器とキンタンポ文化で議論される以外の石製品が共伴しているということであった。ただ問題は動植物の遺存体が保存されなかったことと土器の保存状態がわるいことであった。議論になったのは、ホワイトボルタを見下ろす小高い山の陵線上に位置するヌトレソ(Ntereso)遺跡である。O.Davisがこの遺跡を1961から1962年にかけて調査した際、鉄製品や石鏃の出土でほかのキンタンポ文化との違いが話題になった。しかし、鉄製品がO.Davis自身によって後に誤認であったと発表され、石鏃についてもサハラ地方で見つかっているものであり、何か特別な説明ができるように思われる。この遺跡が重要である理由のひとつは動植物の遺存体がよく残っていることである。貝殻や魚の骨が一定量出土し、骨のなかにはもりや魚つりのための釣り針に加工されたものも見られる。動物の骨は、たいていが野生動物のものとされアンテロープが特筆されるが家畜にされた小型種のヤギの骨も見つかっている。トウジンビエ(Pennisetum)の穂がころがされて土器にミシン目状の文様をつけるのに用いられた。ただし、ミシン目の文様が付いた土器についてはこれまでキンタンポ文化のものとして同定されてこなかったこと、Flight自身の調査でも見つかっていないことから判断が保留された。ヌトレソからの出土品のうち、三点のサンプルを放射性炭素年代測定にかけたところ、紀元前1300年前後という年代が得られた。この年代は、キンタンポ周辺の遺跡群から出土した遺物の年代に近いことからも妥当なものと考えられる。
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