キプロス分断後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 21:37 UTC 版)
1975年初めにギリシャ系キプロス人(英語版)とトルコ系キプロス人(英語版)の間で、ニコシア国際空港を再開を議論した。ギリシャ系のリーダーであるマカリオス大司教は、トルコ系の共同統治下で空港を再開するという案を拒否したが、1975年4月28日から5月3日までウィーンで開催された交渉で、空港自体は原則再開の方向で合意した。だが合同委員会での議論において目立った進展はなかった。 1974年の侵攻以降、ニコシア空港から最後に民間航空便が運航されたのは、取り残されていたキプロス航空の3機を1977年にブリティッシュ・エアウェイズのエンジニアが回収したものである。このホーカー・シドレートライデント2Eはロンドンへ飛行した後、1機がダックスフォード帝国戦争博物館で展示されている。 トルコ侵略により、空港はキプロス軍とトルコ軍間で激しい戦闘が行われた。紛争中に国連安全保障理事会が国連保護地域(UNPA)を宣言し、双方がニコシア空港から500m以上後退することとなった。1974年8月16日、停戦が実現されたことで、ニコシア空港は島の2つの民族を分離するグリーンラインの一区域となった。国際空港としては完全に機能しなくなったが、国連のヘリコプターが活動拠点としており、UNFICYP本部「ブルーベレーキャンプ(英語版)」として使用されている。さらに和平協議用の施設や、国連職員用の娯楽施設も多数用意されている。 ニコシア空港閉鎖後、1975年ラルナカ新空港が南キプロスに開設、北キプロスには2004年にエルジャン国際空港が開港した。両空港とも旧イギリス空軍基地跡に開設された。1983年には南キプロスでパフォス国際空港が開設された[要出典]。国連管轄下でニコシア空港を再開させるという計画が何度か提示されたものの、ギリシャ系、トルコ系のどちらからも真剣に検討されなかった。 キプロス・コルナーロ研究所のマイケル・パラスコス(英語版)は2013年に、他に3つも空港がある現状では、もはやキプロスにニコシア空港は不要だと主張し、跡地に海外ハイテク企業を誘致し、ギリシャ系とトルコ系従業員を雇用する非課税工業地帯への転換することを提案した。
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