カーター・シスターズ・アンド・マザー・メイベル
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「メイベル・カーター」の記事における「カーター・シスターズ・アンド・マザー・メイベル」の解説
1960年にA.P.カーターが死去してからは、それ以前は「カーター・シスターズ・アンド・マザー・メイベル」と知られていたグループは正式なバンド名を「カーター・ファミリー」とした。メイベル・カーターは1930年代後半ないし1940年代前半から1978年に死去するまで、主に三人の娘とともにこのグループで演奏していたが、他のさまざまなグループ構成でも演奏していた。グループはツアーし、数多くのラジオ番組とテレビ番組に出演し、何枚ものレコードを制作した。カーター・シスターズ・アンド・マザー・メイベルとして、グループは最初の商業レコードをRCAビクターで1949年に録音した。平均よりは売り上げはよかったが、その当時はメジャー・ヒットは生み出さなかった。いくつかの曲はファンの間でお気に入りとして長い期間を生き延び、時間の経過とともに大きな影響を与えてきた。これらのレコードは、新しい45回転シングルのフォーマットで最初に発売されたレコードの一つだった。 メイベルはRCAでレコーディングした"My Darling's Home at Last"、"Why do You Weep Dear Willow"、"Walk a Little Closer"、"Don't Wait"、 and "I've Got a Home up in Glory"といった何曲もでリード・パートを歌った。メイベルがフィーチャーされたこの時代のより人気のあるレコードは "Someone's Last Day" だった。ラジオの書き起こしでは司会者は「彼女は他の誰よりも多くのリクエストを受けている」と述べている。カーター・シスターズが書き、歌い、そしてグループの最初のRCAでの78回転レコードとして録音した別の非常に人気のある曲は “The Kneeling Drunkards Plea” だった。KWTOの書き起こしでは司会者はこの曲を「さて、皆さんはカードや手紙などの郵便物でで私たちにとてもよくしてくれました。友達、そして非常に多くの友達がアニタに次の曲をやってくれるように頼んだのでいますぐそれに応えます、 “The Kneeling Drunkards Plea” 」と紹介している。この曲はアニタがリード・パートを歌い、コーラス・パートでは三姉妹が美しい姉妹のハーモニーを歌うことで、彼女たちの「パーソナル」でファンのお気に入りだった。1950年代の前半までにグループはコロムビア・レーベルに移籍した。この時代、メイベルが1つの曲のヴァースを歌い、娘たちがほかの曲を歌うことが頻繁にあった。この時代の最も人気のあるレコードは片面が "Fair and Tender Ladies" で、もう片面が "Foggy Mountain Top" を収録したシングルだった。 1960年代前半にメイベルと娘たちのグループ(この時にはシンプルに「カーター・ファミリー」と呼ばれていた)はリバティー・レーベルに移籍し、1枚のアルバムと、少なくとも1枚のシングルを作った。その後すぐにグループはコロムビアに戻り、メイベルの生涯を通じて契約を維持した。グループの大成功を収めたレコードがコロムビアからリリースされた。この間にボーカルのソリストとしてのメイベルの役割は減少したが、これらのレコードで多くのハーモニーを歌い、定期的に曲全体か、曲の中のヴァースを歌っていた。レイとしてはグループのアルバム The Country Albmu 収録の "Homestead on the Farm"やコンピレーションアルバム Three Generations 収録の "Picture on the Wall"、Keep on the Sunny Side 収録の「永遠の絆」の特に永続的な演奏などがある。
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