カルムイク・ハン国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 16:00 UTC 版)
カルムイキア人は、1630年にオイラート四部(英語版)(ドルベン・オイラト、瓦剌)のひとつトルグート部の指導者ホー・ウルロク(ロシア語版、ドイツ語版)太師に率いられ、同じオイラートのホシュート部に発した内乱を避けてヴォルガ河畔(ノガイ・オルダ)へ移住した(カルムイク・ハン国(英語版)、1630年 - 1771年)、トルグート部及びホシュート,ドルベト(モンゴル語版、ロシア語版、中国語版、英語版)両部の一部、合計五万家族の子孫である。 ヴォルガ・カルムイク人たちはロシア帝国(フョードル3世、ミハイル・ロマノフ父子の治世)と同盟し、報酬を得てロシアの敵オスマン帝国やスウェーデンと戦った。アレクセイ (モスクワ大公)の治世に農奴制が法的に完成して北方戦争後に徴税と徴兵が強化されると、1670年にラージンのドン・コサック盗賊団に合流してラージンの乱(1670年 - 1671年)を起こし、ヴォルガ川流域やカスピ海沿岸のサファヴィー朝ペルシアを荒らした。 1719年11月23日に、クリミア・ハン国や東方のタタール(カルムイク・ハン国を含む)との緩衝地帯形成を目的とする、ロシア皇帝ピョートル大帝の命令で人口希薄なヴォルガ川沿岸の空白地の耕作へドイツ人の移民誘致が始まり、ロシア人やウクライナ人、ドイツ系(ヴォルガ・ドイツ人)の移住者に圧迫されて、カルムイク人は荒地に押しやられた。 1755年から1759年にかけて、清の乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を征服、清・ジュンガル戦争が終結。疫病(天然痘)の蔓延でカルムイク人の父祖の地が空き地になる。1771年、ヴォルガ・カルムイク人の指導者ウバシ(ロシア語版、ドイツ語版)は、父祖の地である東トルキスタンのイリ地方への帰還を決定した。
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