カトリック強硬派への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/24 04:07 UTC 版)
「モナルコマキ」の記事における「カトリック強硬派への影響」の解説
カルヴァン派(ユグノー)は、ユグノー戦争において、ブルボン家のアントワーヌとその弟コンデ親王ルイ、のちにはアントワーヌの子アンリ・ド・ナヴァル(のちのアンリ4世)を旗頭に抵抗したが、一方の、カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を有した。 カトリック側にも虐殺は行き過ぎだとする反省の意見もあったが、イエズス会をはじめとするカトリック強硬派はこれに反発し、ユグノーをもっと弾圧すべきであると主張した。そして、1584年、王弟アランソン公フランソワの死去により王位継承者がアンリ・ド・ナヴァルとなったとき、将来的にプロテスタントの王が出現する可能性が生じたため、これを抑える意見としてユグノー側のモナルコマキの理論を借用して、権力は人民から来ており、契約違反があれば抵抗権が認められると主張した。 イエズス会のロベルト・ベラルミーノは『至高の権力について』でローマ教皇の権威を強調し、ジャン・ブーシェは国王アンリ3世が1589年に暗殺されたのち『アンリ3世の正統な退位について』でアンリは契約違反であったと論じた。このほか、イスパニアのマリアナやフランシスコ・スアレスがおり、スアレスは国法と自然法を区別したことによってフーゴー・グロティウスの先駆者とされる。しかし、カトリック同盟の教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)は、フランスの利益という観点から支持されなくなり、また暗殺のような手段を正当化したことで勢力を減退させた。 貴族や三部会が王権を制約する制限王政を志向し、「真の宗教」を体現する教会を最重視すること、国家の枠組みを相対化するなどの点では、ユグノー側もカトリック側も共通していた。カトリック同盟が、三部会において、スペインの王女をフランス王位に選出しようと画策したのも、「真の宗教」の擁護を優先させるモナルコマキの論理に立ってのことであった。一方、ユグノー戦争では、宗教問題よりも国家の統一と平和を最優先し、絶対主義につながるポリティークの考え方も現れた。
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