カトリック同盟と第6次戦争(1576年 - 1577年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:31 UTC 版)
「ユグノー戦争」の記事における「カトリック同盟と第6次戦争(1576年 - 1577年)」の解説
ボーリュー勅令はカルヴァン派に対して多くの譲歩をしていたものの、これに反対すべくカトリック過激派のギーズ公アンリがカトリック同盟を結成したため、短命に終わってしまった。ギーズ家は長きにわたりカトリックの守護者と見なされており、ギーズ公アンリとその親族(マイエンヌ公シャルル、オマール公シャルル、エルブフ公シャルル、メルクール公フィリップ・エマニュエル、ロレーヌ公シャルル3世)が同盟に忠誠を誓う広大な地域を支配していた。同盟はまた都市中間層に多くの支持者を持っていた。 1576年のブロワ三部会は事態の解決ができず、12月にはポワトゥーとギュイエンヌのユグノーが武装蜂起する。ギーズ一派がスペイン王家からの確固とした支援を受けていた一方で、ユグノーにも南西部に強固な地盤を持つ強みがあった。彼らはまた国外のプロテスタント諸国からの支援を受けていたものの、実際にはイングランドやドイツ諸邦は少数の軍隊を送ったにすぎない。 今回の戦争では王弟アンジュー公(元アランソン公)フランソワ、ダンヴィルら不満派はカトリック同盟に与しており、戦況はユグノー側に不利であった。結局、アンリ3世とユグノーはボーリュー勅令でなされた譲歩の多くを撤回するベルジュラック協定を結び、6日後にこれを確認するポワティエ勅令を発した。
※この「カトリック同盟と第6次戦争(1576年 - 1577年)」の解説は、「ユグノー戦争」の解説の一部です。
「カトリック同盟と第6次戦争(1576年 - 1577年)」を含む「ユグノー戦争」の記事については、「ユグノー戦争」の概要を参照ください。
- カトリック同盟と第6次戦争のページへのリンク