カタルーニャ主義の出発点
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「ラナシェンサ」の記事における「カタルーニャ主義の出発点」の解説
それまでのスペイン中央政府は地方言語での文芸コンクールには寛容だったが、ラナシェンサ運動が高まりを見せていた1867年には「スペインの諸地方の方言」だけで話される演劇を禁じた。劇作家のフラデリック・スレール(スペイン語版)はカタルーニャ口語で演劇脚本を書いて保守的な思想を風刺している。カタルーニャ各地にカタルーニャ語での合唱協会が設立され、バルセロナ県の県令は合唱協会が政治的組織の性格を帯びているとして警戒した。1860年代以降には大衆を購読者層とするカタルーニャ語の雑誌や新聞が登場。文芸誌の『カタルーニャの暦』誌、1883年には22,000部を発行したユーモア誌の『洒落の鐘』誌、1871年にギマラーが主幹となって雑誌として創刊し、1881年に日刊紙となった『ラ・ラナシェンサ』紙などである。当初の「花の宴」には学問的な言語が用いられていたが、1877年にギマラーが口語で書いた作品で褒章を受けたことは、民衆の言語が学問的な言語にとって代わった象徴的な事例だった。 1881年には『ラ・ラナシェンサ』紙と政治家のバランティ・アルミライ(スペイン語版)が共同でセントラ・カタラー(スペイン語版)(カタルーニャ・センター)を設立し、1883年には第2回カタルーニャ主義会議を開催した。『ラ・ラナシェンサ』紙は非政治的であることを主張したためアルミライとの関係はすぐに崩れたが、カタルーニャ主義会議ではカタルーニャ法を擁護する委員会の設置、カタルーニャ語のアカデミーの創設(1911年にインスティテュ・ダストゥディス・カタランス(スペイン語版)言語学部門として達成)、カタルーニャ主義の団体の組織化がなされ、カタルーニャ主義運動の出発点となった。
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