オーバーシュレージェンへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 17:06 UTC 版)
「エルンスト・フォン・ザロモン」の記事における「オーバーシュレージェンへ」の解説
1921年5月3日、オーバーシュレージェンの土地を奪取せんとしてポーランドのナショナリスト、コルファンティが引き起こした暴動は、ザロモンに再び公然と武器を握らせることになった。5月4日の新聞でポーランド人蜂起の記事を読んだ彼は、ドイツ人の土地をポーランド人から守らなければならぬという使命感に駈られ、立ち上がるのは今だとばかりに勤務先の保険会社の仕事を放り出し、リュックサックを背負ってオーバーシュレージェン行きの汽車に乗り込む。ドイツ領内でのポーランド人蜂起は義勇軍結成以来、初めて彼らに決起の大義名分を与えた。 「 オーバーシュレージェンへ! 」 というのは当時のドイツの若者たちの合言葉だった。 ドレスデンの駅では、森林学校の生徒たちがオーバーシュレージェンの森の木を切り倒すためのノコギリを入れた洗濯かごをもち、緑色の制服にハンティング帽姿で、教師に引率されて汽車に乗り込む。 ライプツィヒ駅からは、バイエルンの方言を喋る「オーバーラント団」の連中が乗り込んでくる。 その他、かつてのバルトの義勇軍の連中、カップ暴動の連中、「青年ドイツ騎士団」や「鉄兜団」、「ロスバッハ義勇軍」の連中、学生、兵士、労働者、商人等が、駅員のいぶかる視線を尻目に思い思いの出で立ちでオーバーシュレージェン目指して続々と汽車に乗り込む。 共和国軍の武器庫に忍び込んで武器を盗んだシュラーゲターともザロモンは同じ車中に乗り合わせた。オーバーシュレージェンの辺境で彼らは、国では見いだせなかった解放感を味わった。バルトの義勇軍が統制を欠いていたように、オーバーシュレージェンでの彼らもまたバラバラだった。 学生中隊は、マールブルク大学、フランクフルト大学、ハイデルベルク大学、ボン大学、ゲッティンゲン大学等の仲間内に分かれ、さらにそれがまた法学部、医学部、経済学部等に分かれるといった有り様で、これらアナーキストの学生達の前では世界大戦中、ケメルベルゲの戦闘で勇名をはせた将軍達も笑い飛ばされる対象だった、とザロモンは彼らの無秩序ぶりを記している。
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