オレシェク / ノーテボリ条約とマグヌス4世の遠征
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「スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の記事における「オレシェク / ノーテボリ条約とマグヌス4世の遠征」の解説
1323年8月12日、オレシェク要塞において、スウェーデン・ノヴゴロド間で最初の国境確定条約(ru)が結ばれた(条約名は地名に拠り、ロシア語準拠でオレシェク条約、スウェーデン語準拠でノーテボリ条約)。この条約は締結に先立ち、恒久の和平条約とうたわれていたが、結果的には一時的な和平条約となった。しかしフィンランドでは、この国境線条約の成立によって一定的なスウェーデン=フィンランドの成立と見做される。この条約は、スウェーデンのフィンランド沿岸部の支配権と、ノヴゴロドのバルト海への出口の進出を保証していた。また、ハンザ同盟を中心とするドイツ人商人の通行の安全確保を目的とするものでもあった。 1328年以前から、スウェーデンは、条約によりノヴゴロドに帰属していたカレリア地峡東部の住民への支配権の掌握に動き出していた。1337年に、カレリア人(ru)がノヴゴロドに対して蜂起した際には、スウェーデン王マグヌス4世は反乱軍を支援する軍を送った。スウェーデン軍はしばらくの間コレラ要塞(ru)を占拠し、対するノヴゴロド軍は翌年にヴィボルグを包囲した。その後まもなくして休戦協定が結ばれた。 休戦の10年後、マグヌス4世はノヴゴロドにローマ教皇の権威を認めることを求めた。『ノヴゴロド第一年代記(ru)』、『ノヴゴロド第四年代記(ru)』によると、マグヌス4世はノヴゴロド人に、自身の哲学(カトリック神学)の討議への参加を求め、論戦で宗教的紛争の勝利を得ようとしたとされる。それに対し、ノヴゴロド大主教ヴァシリー(ru)は、ノヴゴロドの上流層やポサードニクと協議し、「彼我の信仰において、何れがよりよき信仰であるか知りたいならば、討議に我ら僧正を派遣せよ。我らはギリシャより信仰を得た者(ビザンツ伝来の正教徒)である。」と述べたと記されている。この応答を知ったマグヌス4世は、1348年に軍勢を揚陸させ、8月にはオレシェクを占領した(ru)。しかし秋には、ノヴゴロド軍はひそかにヴォルホフ川経由で船団を送り、オレシェクに停泊中のスウェーデンの軍艦を急襲して撃破した。翌1349年2月、ノヴゴロド軍はオレシェクを奪還した。 1350年、マグヌス4世は再度攻撃を仕掛けたが不首尾に終わった。また、同年北欧ではペストが広がり、マグヌス4世の軍事行動は終結した。
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