オレシェク / ノーテボリ条約とマグヌス4世の遠征とは? わかりやすく解説

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オレシェク / ノーテボリ条約とマグヌス4世の遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:21 UTC 版)

スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の記事における「オレシェク / ノーテボリ条約とマグヌス4世の遠征」の解説

1323年8月12日、オレシェク要塞において、スウェーデン・ノヴゴロド間で最初国境確定条約(ru)が結ばれた条約名は地名拠りロシア語準拠でオレシェク条約スウェーデン語準拠でノーテボリ条約)。この条約締結先立ち恒久和平条約うたわれていたが、結果的に一時的な和平条約となった。しかしフィンランドでは、この国境線条約成立によって一定的なスウェーデン=フィンランド成立見做される。この条約は、スウェーデンフィンランド沿岸部支配権と、ノヴゴロドバルト海への出口進出保証していた。また、ハンザ同盟中心とするドイツ人商人通行安全確保目的とするものでもあった。 1328年以前から、スウェーデンは、条約によりノヴゴロド帰属していたカレリア地峡東部住民への支配権掌握動き出していた。1337年に、カレリア人(ru)がノヴゴロドに対して蜂起した際には、スウェーデン王マグヌス4世反乱軍支援する軍を送ったスウェーデン軍しばらくの間コレラ要塞(ru)を占拠し対すノヴゴロド軍は翌年ヴィボルグ包囲したその後まもなくして休戦協定結ばれた休戦10年後、マグヌス4世ノヴゴロドローマ教皇権威認めることを求めた。『ノヴゴロド第一年代記(ru)』、『ノヴゴロド第四年代記(ru)』によると、マグヌス4世ノヴゴロド人に、自身の哲学カトリック神学)の討議への参加求め論戦宗教的紛争勝利を得ようとしたとされる。それに対しノヴゴロド大主教ヴァシリー(ru)は、ノヴゴロドの上流層やポサードニク協議し、「彼我信仰において何れがよりよき信仰であるか知りたいならば、討議我ら僧正派遣せよ。我らギリシャより信仰得た者(ビザンツ伝来正教徒)である。」と述べた記されている。この応答知ったマグヌス4世は、1348年軍勢揚陸させ、8月にはオレシェクを占領した(ru)。しかし秋には、ノヴゴロド軍はひそかにヴォルホフ川経由船団送り、オレシェクに停泊中のスウェーデン軍艦急襲して撃破した。翌1349年2月ノヴゴロド軍はオレシェクを奪還した1350年マグヌス4世再度攻撃仕掛けた不首尾に終わったまた、同年北欧ではペスト広がりマグヌス4世軍事行動終結した

※この「オレシェク / ノーテボリ条約とマグヌス4世の遠征」の解説は、「スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の解説の一部です。
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