オランダのチューリップ・バブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 09:13 UTC 版)
「バートン・マルキール」の記事における「オランダのチューリップ・バブル」の解説
オランダにおけるチューリップ・バブルの発端は、1593年にウィーンからオランダに着任した植物学者がトルコからチューリップの球根を持ち込んだことからはじまる。大変高価な植物であったが、チューリップはオランダで次第に人気を博した。 チューリップは、モザイク病というウィルス性の病気にかかるものが多かったが、この病気は致命的なものでなく、オランダ人はむしろこのモザイク模様をビザールと呼び珍重した。瞬く間に収集熱は広がり、花びらの模様が美しいチューリップほど高い値段が付くようになり、確実に儲かる投資対象として見られるようになっていった。 最初はたかが球根と馬鹿にしていた分別がある人たちも、友人や身内が巨大な利益を上げるのを目の当たりにし、このゲームに参加していった。バブルのピークは1634年から1637年にかけての数年間だったが、そのころには欲にくらんだ人々は土地、宝石、家具などを引き換えにしてチューリップを手に入れようとした。 しかし、1637年1月に球根の価格が20倍に跳ね上がった後、2月にはそれ以上の幅の下落を示す。どんな投機熱もそうだが、価格が高価になりすぎると一部の人が売って利益を実現しようと考え始める。するとほかの人がこれに続き、価格の下落が加速度的に進み、パニック状態に陥った。これを受け、オランダ政府はチューリップの価格がこれ以上下落する理由はないと公式に発表したが、耳を傾けるものはいなく、最終的に球根の価格はタダ同然までに下落した。 この狂乱のゲームの早い段階で売り抜けた人も、バブル崩壊後のオランダ経済の長い不況に巻き込まれ、結局逃げ切れたものは誰もいなかった。
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