オクタウィアヌスとの対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:42 UTC 版)
「マルクス・アントニウス」の記事における「オクタウィアヌスとの対決」の解説
アントニウスは、パルティア遠征でローマを裏切ってパルティアへ味方したアルメニア王国を攻撃し、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。そしてその凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行した。その際に自らの支配領土をクレオパトラや息子らへ無断で分割したことやオクタウィアヌスが公開させた遺言状の内容、貞淑な妻オクタウィアへの一方的離縁などでローマ人の神経を逆撫でした。ローマ市民の中に「エジプト女、しかも女王に骨抜きにされ、ローマ人の自覚を失った男」といったイメージができた。 また、中東のローマとの同盟君主達もクレオパトラの要求に応じてアントニウスが彼女にそれまで彼らが支配していた中東の領地 を与えてしまうことを困っており、アントニウスには従っていたユダヤのヘロデも一度はクレオパトラの暗殺を考え(アントニウスの怒りを買うのを恐れて実行はせず)、ナバテア王国の王マルコス1世は露骨にこれによる支払い を拒否するようになった。 こうしたアントニウスの失策を見たオクタウィアヌスは、アントニウスとの対決を決断し、プトレマイオス朝に対して宣戦布告した。オクタウィアヌスの軍とアントニウス派およびプトレマイオス朝などとの連合軍はギリシアのアクティウム沖で激突。このアクティウムの海戦で敗北したアントニウスとクレオパトラはエジプトへ敗走した。 この敗戦により趨勢は決し、これまでアントニウスに従っていたヘロデなども彼を見限り、アントニウス側の援軍をシリア総督クィントゥス・ディディウス(彼もオクタウィアヌス側の人間)とともに妨害したり、オクタウィアヌス軍に補給物資を供給するようになるなど協力を始め、オクタウィアヌスはエジプトの首都アレクサンドリアへ軍を進めた。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕の中で息絶えたとされる。
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