オクタウィアヌスとアントニウスの内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 16:37 UTC 版)
「ガイウス・アシニウス・ポッリオ (紀元前40年の執政官)」の記事における「オクタウィアヌスとアントニウスの内戦」の解説
オクタウィアヌスとマルクス・アントニウスの内戦の可能性が高まると、ポッリオは両者の間で揺れたが、結局はアントニウスに加担することにした。しかしその後、アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスは三頭政治を開始する。結果血なまぐさいプロスクリプティオが実施され、ポッリオの義理の父であるルキウス・クィントゥスもその最初の犠牲者の一人となった。彼は船で逃れたものの、結局は船上から海に飛び込んで自殺した。三者での属州分割により、ガリアはアントニウスの管轄となり、ポッリオはガリア・トランスパダナ(ガリア・キサルピナの内、ポー川からアルプスの間)の管理を行うこととなった。退役軍人にマントヴァの土地を分配する際には、ウェルギリウス(マントヴァ出身)の財産を保全するために、自身の影響力を利用している。 紀元前40年に、オクタウィアヌスとアントニウスの間で合意されたブルンディンシウム(現在のブリンディジ)の和約を仲介した。同年にポッリオは執政官を務めているが、これは紀元前43年に三頭政治によって約束されていたことであった。ウェリギリウスは、ポッリオに対して有名な第四の牧歌を贈っている。ただ、これがポッリオの執政官就任を予測してのものか、あるいはブルンディンシウムの和約での役割を讃えたものかは不明である。ウェルギリウスは、他のローマ人と同様に、平和の到来とポッリオの下での黄金時代の到来を期待した。しかし、ポッリオは執政官の任期を満了することはできなかった。彼と同僚執政官のカルウィヌスはその年の最後の月にオクタウィアヌスとアントニウスから解任されている。 翌年、ポッリオは前執政官(プロコンスル)として、マルクス・ユニウス・ブルトゥスと同盟したイリュリアのパルティニ族に対する軍事作戦を行い勝利した。ローマに戻った10月25日には凱旋式を実施している。ウェルギリウスの第八の牧歌は、作戦中のポッリオに捧げられたものである。 紀元前31年、オクタウィアヌスはポッリオにアントニウスとの最終決戦(アクティウムの海戦)に参加するよう依頼した。しかし、これまでのアントニウスから受けた恩恵のため、中立を維持した。
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