オクタウィアヌスとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 15:37 UTC 版)
「フルウィア (マルクス・アントニウスの妻)」の記事における「オクタウィアヌスとの対立」の解説
紀元前42年、アントニウスとオクタウィアヌスは、カエサルを暗殺したマルクス・ユニウス・ブルトゥスとガイウス・カッシウス・ロンギヌスを追撃した。フルウィアはローマに残り、そこでは最も影響力のある女性であった。カッシウス・ディオによれば、フルウィアはローマの政治を牛耳っていた。ディオは、「翌年、プブリウス・セルウィリウスとルキウス・アントニウスが名目的に執政官となったが、実際には(執政官にあたるのは)アントニウスとフルウィアだった。オクタウィアヌスの姑でアントニウスの妻である彼女は、怠惰なレピドゥスに一切敬意を払わず、自らの手で物事を差配したため、元老院も民衆も、彼女の悦楽と引き換えに自身の仕事を行うことができなかった」と述べている。 まもなく、三頭政治を行う3人は管轄する属州を分担することになった。レピドゥスは西方を取り、アントニウスはエジプトへ赴き、そこでクレオパトラ7世と出会うことになる。一方オクタウィアヌスは紀元前41年にローマに帰ってきてカエサルに従ってきた古参兵たちに土地を分配し、フルウィアの娘クロディアと離婚したうえで、フルウィアが最高権力を得る野望を抱いていると弾劾した。アントニウス不在中にオクタウィアヌスが古参兵たちの忠誠を獲得し始めたのに脅威を感じたフルウィアは、得た土地に入植していった古参兵たちのもとを子どもたちを連れて巡回し、古参兵たちにアントニウスへの借りを思い起こさせようとした。またフルウィアは、アントニウスとレピドゥスが土地分配執行者の名誉にあずかれるよう、アントニウスが帰還するまで土地分配を遅らせるよう運動した。オクタウィアヌスがイタリアにおり、アントニウスは遠方にいるという不利を覆すべく、フルウィアは夫の弟ルキウス・アントニウスと協力して、公然とマルクス・アントニウスを支持する反オクタウィアヌス運動を展開した。 彼女の行動は、政界と社会に不穏な空気をもたらした。紀元前41年、オクタウィアヌスとフルウィアの対立関係が火を噴き、戦争に発展した。アッピアノスは、この戦争の首謀者はフルウィアであるとし、彼女がエジプトでのアントニウスとクレオパトラ7世の不倫関係に嫉妬を抱いたのが原因であったとしている。フルウィアが、アントニウスの関心をイタリアに引き戻すべく、オクタウィアヌスとルキウス・アントニウスの対立を煽った可能性もある。ただ一方で、アッピアノスは指揮官たちの利己的な野望と、自身の兵たちをコントロールできない無能ぶりも戦争の原因であったと述べている。
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