エリー鉄道 1895年 - 1960年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/29 16:00 UTC 版)
「エリー鉄道」の記事における「エリー鉄道 1895年 - 1960年」の解説
1893年にニューヨーク・レイク・エリー・アンド・ウェスタン鉄道は再び倒産し、1895年にエリー鉄道 (Erie Railroad) として再建された。 1897年にはエリー鉄道はペンシルバニア鉄道から、ジョンソンバーグからブロックウェイ(英語版)(当時はブロックウェイビルと呼ばれていた)までの27.76マイルの線路使用権を得た。 1907年5月1日にはエリー鉄道はさらにバッファロー・ロチェスタ・アンド・ピッツバーグ鉄道(英語版)から、ジョンソンバーグの北にあるペンシルベニア州クラリオン(英語版)からジェファーソン郡にある後にクレイマーと呼ばれるエレアノラ・ジャンクション (Eleanora Junction) までの線路使用権を得た。この路線の延長は50.67マイルであった。 ジョージ・パーキンス (George Perkins) は1910年にフレデリック・アンダーウッド(英語版)をエリー鉄道に連れてきて社長とした。1913年の東部鉄道ストライキの間には、アンダーウッドはニューランズ開拓法(英語版)に基づく仲裁人によってなされたいかなる規定も受け入れると表明した。エリー鉄道の従業員の要求には賃金の20パーセント増があった。エリー鉄道の経営陣はこの賃金増を拒否したが、従業員に対して1915年1月までさらなる進展を待つように依頼して妥協した。組合の代表はこの妥協に同意した。しかし列車乗務員友愛組合の総裁であったW.G.リーは、エリー鉄道と交渉する唯一の方法は、J.P.モルガンや銀行を通じた方法であると主張した。アンダーウッドはウィスコンシン州ウォーワトサ(英語版)の自宅から「私がエリー鉄道を経営しているのだ。ジョージ・パーキンスでも、J.P.モルガンでも、他の誰でもない」と返信した。 1920年代半ば、ヴァン・スワリンゲン兄弟(英語版)がエリー鉄道の支配権を握り、機関車や鉄道車両の標準化など運営を改善して、収益を上げた。 1938年には、エリー鉄道は有名な合衆国最高裁判所の判決、エリー鉄道対トンプキンズ事件(英語版)の当事者となった。この件は連邦各州で法制が異なるときの州法の適用に関するものとして、今日でもアメリカの法科大学で教えられている。 1948年9月15日、クリーブランド・ユニオン・ターミナルズ会社は、エリー鉄道の古い駅の代わりに、ターミナル・タワー(英語版)に隣接するユニオン駅を使用することを許可した。 エリー鉄道では蒸気機関車の最終運行は1954年5月17日のこととなり、ジャージーシティとニューヨーク州スプリング・バレーを結ぶ通勤列車をK-1型パシフィック機2530号が牽引した。 1958年、エリー鉄道はハドソン川沿いのターミナル駅をパボニア駅(英語版)からホーボーケン駅へ移転した。1960年にはデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道と合併した。新会社名はエリー・ラッカワナ鉄道となった。
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