エチルの発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 02:05 UTC 版)
ミジリーは米国の自動車会社ゼネラルモーターズ(GM)の子会社デイトン・リサーチ・ラボラトリーにチャールズ・ケタリングの部下として勤務していた。1921年12月に、テトラエチル鉛 (tetraethyllead :TEL) をガソリンに添加するとエンジンがノッキングを起こさなくなることを発見する。デイトン・リサーチ・ラボラトリーは鉛が添加されていることを報告書や広告で触れないように、その物質を"エチル" (Ethyl) と呼ぶことにした。石油会社と自動車メーカー、特にその特許を保持していたGM社は、自分たちの利益とならないエタノール(エタノール入り燃料)に代わるものとして精力的に有鉛ガソリン化を推進した。 1922年12月、ミジリーはアメリカ化学会からウィリアム・H・ニコルズ賞を受賞している。これに続きいくつかの賞を受賞している。 ガソリンへの鉛の添加は大気中に大量の鉛を放出する結果となった。ミジリー自身も、鉛中毒となり長期療養を必要とした。1923年1月にミジリーが記している。「有機鉛の中で一年以上も働くと、肺がやられてしまい、仕事をやめて新鮮な空気の場所に移る必要があった。」ミジリーはマイアミで過ごしている。 GMはデュポン社に量産を委託し、委託業務の管理のために1923年4月、ゼネラルモーターズ・ケミカル・カンパニー (General Motors Chemical Company) を設立している。社長がチャールズ・ケタリングとなり、ミジリーは副社長についた。しかし、デイトンで働いていたスタッフの話では、1924年にオハイオ州デイトンでおこなわれていたテトラエチル鉛の試作工場で2名が死亡し、数名が病気となり、デュポン社がプロジェクトからの撤退を考えはじめたきっかけとなったという。翌年、デュポン社のニュージャージー州ディープウォーターの工場ではさらに多数の死亡者をだしている。 1924年、デュポンの従来型製法での生産スピードに不満をもったGM社は、ロックフェラー率いるスタンダード石油社と組み、エチル・ガソリン・コーポレーションを設立し、ミジリーを部長とした。ニュー・ジャージーにあるベイウェイ・リファイナリーに工場を建設し、危険度の高い高温でのエチルクロライド製法を採用した。ベイウェイ工場では当初の2ヶ月の間に、鉛汚染による症状が発生した。それは、幻覚症状を訴え、精神異常をきたし、引き続いて5人が死に至った。10月30日にミジリーは記者会見に臨み、この新しい物質に接触した場合でも『安全であること』を訴えた。この会見の際、ミジリー自身が自分の手をテトラエチル鉛に浸し、次いで、ビンにいれたテトラエチル鉛を鼻から60秒間吸い込んだ。さらにミジリーは、これを何の問題も無く毎日できる、死ぬことはない、と宣言した。しかし、工場は州により数日後に閉鎖され、スタンダード石油はテトラエチル鉛(TEL)の製造を禁止され、製造再開には州の許可が必要となった。 ノッキングしないこのガソリンは、"エチル・ガソリン"という名前で販売された。この有鉛ガソリンは、1960年代に環境問題となる。 ミジリーは1925年4月にGMCC副社長を辞任した。組織運営についての経験不足からだと報道された。彼はその後もGM社員にとどまった。
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