エスプリ・ヌーヴォー館とソビエト館
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「パリ万国博覧会 (1925年)」の記事における「エスプリ・ヌーヴォー館とソビエト館」の解説
この展覧会で異彩を放ったのは、装飾的とは言い難い、モダニストであるル・コルビュジエが手がけたエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンと、構成主義者のコンスタンチン・メーリニコフが設計したソビエト連邦のソビエト・パビリオンであった。これらの館にも家具や絵画は展示されていたが、建物自体も展示品もより簡素でより前衛的であった。コルビュジエとメーリニコフの装飾を排した建築は、批判と絶賛を同時に浴びた。批判の声は、これらの建物がリュールマンの「コレクショヌール館」や装飾芸術家協会の「フランス大使館」などと比べ、あまりにも「むき出し」であることに集中した。 コルビュジエのエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンは白い箱型の建物で、壁面には大きなガラス窓と四角い「穴」があった。中には大きな窓のある真っ白な吹き抜けの居間や寝室、台所などがあり、「穴」は居間に連続して設けられた、同じ屋根の下にある半屋外のテラスを外から見た姿だった。装飾はなく幾何学的形状しか用いられていないが、その分建物を外から見た際の凹凸や内部空間の多様さで表情が与えられていた。このパビリオンはモダニズム建築の簡素さだけでなく、コルビュジエの唱える幅広い思想や理論がこのパビリオンに結集していたことが今日でも注目される。「エスプリ・ヌーヴォー」(「新思潮」)は彼が1920年に創刊し建築思想に関する論文を掲載した雑誌の名である(これらの論文は1923年に著書『建築をめざして』へとまとめられた)。館内では「ヴォアザン計画」(Plan Voisin)が展示された。フランスの先駆的な飛行家ガブリエル・ヴォアザンの名をとったこの計画は、同一の形をした高さ200mのガラス張りの摩天楼群と、低層の長方形のアパートが規則正しく並ぶ街並みにより、建物が密集したパリのセーヌ川右岸一帯の市街地を置き換えるという都市計画であった。後に「輝く都市」へとつながったこの計画は、パリでは実現することはなかったものの建築界に大きな影響を与えた。またこのパビリオン自体も一戸建てを構想したものではなく、もとは彼が1922年に発表した集合住宅「イムープルヴィラ」の一単位分であり、これと同じものを多数横に並べて四段に積み、一街区分のアパートを構成する計画だった。このパビリオンは、彼のより大きな都市計画の中の、アパートの一単位分だけが実現したものである。 コンスタンチン・メーリニコフにより設計されたソビエト・パビリオンは、アレクサンドル・ロトチェンコの設計した「労働者クラブ」と並び、ロシア構成主義建築の代表例の一つとなった。メーリニコフのソビエト・パビリオンはこの博覧会でグランプリを獲得した。その他、ソビエト勢ではヴァディム・メラー(Vadym Meller)の舞台美術が金メダルに輝き、ヴフテマス(Vkhutemas、国立高等美術工芸工房)に属する学生の作品もいくつかの賞を受ける躍進を見せた。
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