ウッドワードとの関係
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「マーク・フェルト」の記事における「ウッドワードとの関係」の解説
フェルトがウッドワードと最初に出会ったのは、事件が起こる3年前の1969年秋にホワイトハウス西館1階の国家安全保障会議幹部執務室の前でホワイトハウスの担当官を待っている間にたまたま隣り合わせになった時である。当時ウッドワードは海軍大尉で、海軍から書類を届けに来ていた。このときフェルトは、出身大学が自分と同じであることにまず興味を示したという。その後、ウッドワードはフェルトの自宅を訪ねるようになり、その間にワシントン・ポスト紙に記者として採用された。そしてウォーターゲート事件が発生して後は、夜中に密かに落ち合うこととなった。 そしてフェルトはウッドワードの取材活動を側面から支えてウォーターゲート事件のスクープを数々実現させたが、その後の二人は疎遠となった。フェルトは何度否定してもディープスロートではないかといった質問に晒されたうえ、ウォーターゲート事件が大統領辞任で終結して以降、前記の通り副長官時代のテロ組織捜査をめぐる裁判の被告人となった。長い審理の間にウッドワードはジャーナリストとして全く逆の立場となり、また審理の終盤でフェルトを擁護するため証人として出廷したのがニクソン前大統領であった。有罪ながら罰金刑という軽い判決を受けた際、フェルトはウッドワードに「ニクソンは『ワシントン・ポスト』よりも力になってくれた」と語った。そして、その後のレーガン大統領による赦免はフェルトを感激させ、「どれだけ大統領に感謝してよいか分からない」という言葉を残した。ニクソンはこの時に「正義は最後に必ず勝つ」という言葉を添えてフェルトにシャンパンを贈っている。 2000年2月にウッドワードは86歳になったフェルトを訪れている。だがもうこの時にはフェルトは認知症で記憶が曖昧になっており、過去の事件や人物についても記憶にないという言葉が多く、ウッドワードが知りたかったことも聞けない状態であった。ディープ・スロートであったことを公表した時には、本人の記憶の大半が失われていた。彼の娘が公表した時にウッドワードを始め『ワシントン・ポスト』の編集幹部は、亡くなるまで秘匿するという当初の方針を変え、彼がディープ・スロートであることをフェルト側の公表と同じ日に声明で明らかにした。ウッドワードは後にフェルトとの思い出を書いた『ディープ・スロート 大統領を葬った男』の最後にこう書き入れている。 最後にマーク・フェルトに永遠の感謝を捧げたい。丁々発止のやりとりになることもあったが、フェルトはやがては道標を示し、情報や洞察をさずけてくれた。それがウォーターゲート事件には必要不可欠であった。 — ボブ・ウッドワード、『ディープ・スロート 大統領を葬った男』p.238 フェルトがなぜウッドワードにさまざまな情報を提供したのか、彼自身も長年知りたがっていたが、聞き出すことが出来ないまま死去した。
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