ウッドロウ・ウィルソンとの関係
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「エドワード・M・ハウス」の記事における「ウッドロウ・ウィルソンとの関係」の解説
1902年ごろにテキサスの政治から撤退してニューヨークに移った。1911年にニュージャージー州知事のウッドロウ・ウィルソンの顧問、親友、支援者となり、1912年民主党全国大会でウィルソンが民主党の大統領候補になるのを助けた。ウィルソンと親密な関係となり、大統領選挙当選後はその政権の立ち上げに貢献した。 ウィルソンはハウスに対し、(既にウィリアム・ジェニングス・ブライアンで決定していた国務長官を除く)希望するどの役職でも就かせると言ったが、ハウスはそれを断り、「可能な限り、どこでも奉仕する」と述べた。ハウスは、ホワイトハウス内に居室を提供された。 ハウスは、ウィルソンの顧問として、特に外交問題を担当した。1917年から1919年にかけてのヨーロッパでの和平交渉では、ウィルソンの首席交渉官を務め、パリ講和会議では首席補佐官を務めた。 1916年の大統領選挙では、ハウスは公の場での役割を辞退したが、ウィルソンの選挙運動の最高顧問を務めた。ハウスは、選挙戦の構成を考え、その方針を決定し、資金調達を指導し、演説者・戦術・戦略を選定した。そして何よりも、この選挙戦の最大の資産であり、最大の潜在的な責任者だった。 1914年にウィルソンの最初の妻が亡くなると、ウィルソンはさらにハウスに接近した。しかし、ウィルソンが1915年に結婚したイーディス(英語版)はハウスを嫌っており、彼の立場は弱くなった。ウィルソンが最終的にハウスとの決別を決意したのは、彼女の個人的な反感が大きく影響していると言われている。
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