ウィチタ集落の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:30 UTC 版)
「ローレンス・S・ロス」の記事における「ウィチタ集落の戦い」の解説
1858年夏、ロスはテキサスに戻り、父がインディアン代理人を務めているブラゾス・インディアン保留地に向かった。テキサスの領土に入り込んだ白人入植者を破壊的に襲撃しているコマンチ族の戦士バッファロー・ハンプを捜索するアメリカ陸軍に、保留地のインディアンたちを斥候として雇い入れる予定だった。父のシャプリー・ロスは病気が重く、その任務を指揮することができない怖れがあったので、インディアン達はロスをその新しい戦闘指揮者に指名した。父の承認を得た若いロスは135名の戦士を率いてアール・ヴァン・ドーン大尉の指揮するアメリカ騎兵隊と落ち合った。ロスはこの指揮の間、儀礼上の「大尉」の肩書きを与えられた。 インディアンの斥候が、インディアン準州のウィチタ族集落の外に宿営しているバッファロー・ハンプを含む約500名のコマンチ族インディアンを発見した。ロスとその部隊でコマンチ族の馬をうまく逃がして戦士達を不利な状況にした後で、ロスと他の3名が逃亡者の1団を追った。逃亡者は女と子供達であり、ロスは白人の様に見える1人の子供を捕まえておくよう部隊の1人に命じた。戦闘に加わるために戻ると、25名のコマンチ族戦士に遭遇した。それに続く戦闘でロス配下の2名が戦死し、ロスも肩に矢傷を、胸に58口径弾を受けた。その攻撃者はロスが子供時代から知っていたコマンチ族の勇敢な戦士モヒーだったが、倒れたロスに皮むきナイフを持って近付いているときに騎兵の1人に殺された。 戦闘が5時間続いた後で、アメリカ騎兵隊がコマンチ族の抵抗を制圧した。バッファロー・ハンプは逃亡したが、70名のコマンチ族戦士が殺された。ロスの傷は重く、動かせないために5日間戦場の木の下に寝かされていた。その傷は感染しており、ロスはそれ以上痛みが続かないように殺してくれるよう他の者に頼んだ。ロスが動けるようになると、初めは2頭のロバの間に吊された担架に、次には部隊兵の肩で運ばれた。その後ロスは快復したが、後年の大半も幾らか痛みを感じることがあった。 ヴァン・ドーンはその報告書の中でロスのことを大いに称賛した。『ダラス・ヘラルド』紙が10月10日にその報告書を掲載し、他の州内新聞もロスの勇敢さを称賛した。ウィンフィールド・スコット将軍がロスの果たした役割を知り、陸軍に直ぐに入隊するよう提案した。ロスは学業を終えることを切望しており、スコットの提案を断って、アラバマ州の大学に戻った。 ロスは1859年に文学士号を得てウェズリアン大学を卒業しテキサスに戻った。テキサスでは、先の戦闘中に救い出した白人少女の家族を誰も見付けられなかったことが分かった。ロスはその子供を養子にし、新しいフィアンセであるリジー・ティンズリーに因んでリジー・ロスと名付けた。
※この「ウィチタ集落の戦い」の解説は、「ローレンス・S・ロス」の解説の一部です。
「ウィチタ集落の戦い」を含む「ローレンス・S・ロス」の記事については、「ローレンス・S・ロス」の概要を参照ください。
- ウィチタ集落の戦いのページへのリンク