イベリア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:03 UTC 版)
詳細は「イベリア戦争」を参照 新しい東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年 - 565年)が即位した一年後の528年に二つの大国間の敵意が再び戦争へと発展した。これはおそらく東ローマ帝国がホスローをカワード1世の後継者として認めなかったことが原因であると考えられている。ギリシアの年代記作家のヨハネス・マララス(英語版)によれば、最初の軍事衝突は522年以来両帝国の間で争われていたラジカ(英語版)で発生した。それから間もなく戦いはメソポタミア方面へも広がり、東ローマ帝国は国境付近において大きな敗北を喫した。530年には東ローマ軍の勝利に終わったサタラの戦い(英語版)と、サーサーン朝軍と東ローマ軍との間で行われた有名な野戦の一つであるダラの戦いが起こった。 ペロゼス、ピトヤクセス、バレスマナスに率いられたサーサーン朝軍はダラの戦いにおいて惨敗を喫した。しかしこの戦いは戦争の終結をもたらすには至らなかった。翌531年、カワード1世は軍隊を編成し、東ローマ帝国のコンマゲネ州へ侵攻するために軍司令官のアザレテス(英語版)の下へ軍を派遣した。ベリサリウスの指揮下にある東ローマ軍が接近すると、アザレテスと配下の兵は東方に退き、カリニクムで動きを止めた。その後のカリニクムの戦い(英語版)において東ローマ軍は手酷い敗北を喫したものの、ペルシア軍の損失も非常に大きく、不満を抱いたカワード1世はアザレテスを解任した。 同年、ペルシア軍はマルティロポリス(現在のシルヴァン(英語版))を包囲した(マルティロポリス包囲戦(英語版))。しかしながら包囲中にカワード1世は病に罹り、9月13日に死去した。その結果、都市の包囲は解かれ、カワード1世の後継者であるホスロー1世とユスティニアヌス1世の間で和平(永久平和条約(英語版))が成立した。
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