イギリス・ファシスト同盟指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 10:13 UTC 版)
「オズワルド・モズレー」の記事における「イギリス・ファシスト同盟指導者」の解説
1932年にドイツとイタリアを訪問。ドイツでの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の盛り上がりやイタリアのムッソリーニ率いるファシスト政権の成果を目の当たりにして、帰国後の1932年10月1日に自らの党を「イギリス・ファシスト同盟」(BUF)に改称。ファシストとしての立場を鮮明とする。 労働党の内紛や世界大恐慌による社会不安からモズレーのファシスト同盟は人気を得、1934年には党員数が1万人を超えてピークに達した。活動的でないメンバーや支持者も加えると3万人以上のシンパがいたとみられている。しかし同年に行われたファシスト同盟のオリンピア集会では暴力事件が発生し、その事件への批判の高まりでファシスト同盟と既成政党の連携のチャンスは失われた。 またモズレー自身が反ユダヤ主義を公的に標榜したことはなかったものの、ファシスト同盟党員には反ユダヤ主義者が多く、しばしばイーストエンドのユダヤ人を襲撃する事件が発生した。しかもこの頃からナチ党政権下のドイツにおけるユダヤ人迫害がイギリス国内で報道されるようになり(例えばドイツの町々に「この町にユダヤ人はいません」という看板が誇らしげに掲げられるようになったこと、公園のベンチがドイツ人用とユダヤ人用に分けられたこと、ユダヤ人に物を売らない商店が増えていることといったニュース)、モズレーの運動は反ユダヤ主義と結びつけられて否定的に扱われることが増えていった。 またファシスト同盟党員は、肩章のついた黒い上着と腕章、褐色の乗馬ズボンと乗馬ブーツという制服で活動したが、これはナチスの物真似制服として不評だった。しかもこの制服は1936年の公共秩序法によって禁止されてしまった。 ドイツのナチ党総統のヒトラーは、思想を同じくするモズレーの台頭を期待していたといわれている。1936年に2人目の妻、ダイアナ・ミットフォードと結婚した際の結婚式はベルリンで挙行され、ヒトラーとゲッベルスが出席した。
※この「イギリス・ファシスト同盟指導者」の解説は、「オズワルド・モズレー」の解説の一部です。
「イギリス・ファシスト同盟指導者」を含む「オズワルド・モズレー」の記事については、「オズワルド・モズレー」の概要を参照ください。
- イギリスファシスト同盟指導者のページへのリンク