イギリスへ・父との断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 04:42 UTC 版)
「T・S・エリオット」の記事における「イギリスへ・父との断絶」の解説
1915年には先輩詩人エズラ・パウンドの誘いに応じてイギリスへ拠点を移し、オックスフォードで知り合った女性ヴィヴィアン・ヘイ=ウッドと結婚した。 しかし父親はヴィヴィアンとの結婚に強く反対し、またアメリカを離れ、一族の信仰だったユニテリアン派を捨てたエリオットに対して遺産の相続を拒否。そしてエリオットが死んだ場合にもヴィヴィアンへは財産が遺贈されないよう取り決められた。そのため、富裕な一族の息子として欧州とアメリカを自由に行き来しながら詩作と学業を続けていたエリオットは、一転して経済的な苦境にさらされるようになった。さらに妻が神経症をわずらったため多額の治療費が必要となり、一般向け公開講座の講師や雑誌への寄稿などで家計をささえる生活がつづいた。 1917年にロイズ銀行の渉外部門に職を得てからは生活が安定しはじめ、本格的な文学活動を開始する。パウンドが主宰者の1人だった文芸誌の編集に加わったほか、パウンドの助力を得て1917年に第1詩集『プルーフロックとその他の観察』(Prufrock and Other Observations) を刊行している。 1919年にヴァージニア・ウルフらが経営する出版社から刊行された『詩集 - 1919年』(Poems 1919)、また翌1920年に主要な初期作品をおさめて出版された詩集『われ汝に請う』(Ara Vos Prec, アメリカ版題名『詩集』Poems )は大きな成功を収め、英米両国において、エリオットは英語圏における重要詩人としての名声を獲得することになった。 1920年にはまた評論集『聖なる森』(The Sacred Wood) を刊行。ここにおさめられた「伝統と個人の才能」(Tradition and the Individual Talent) や「ハムレットとその問題」(Hamlet and His Problems)は、アメリカの文壇にとどまらず、ケンブリッジ大学で学問としての英文学の精密化をもくろんでいたI・A・リチャーズ、その学生F・R・リーヴィスなど、アカデミズムでも幅広い範囲で大きな衝撃を持って受け止められ、ここから新批評が始動してゆく。
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