アンカラの戦い
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「ティムールの征服戦争」の記事における「アンカラの戦い」の解説
「アンカラの戦い」も参照 残るティムールの最後の課題はオスマン帝国であった。オスマンのバヤズィト1世はジャライル朝のスルタン・アフマドや黒羊朝のカラー・ユースフの亡命を受け入れ、タハルティンを始めとするアナトリア諸侯に圧力を加え続けていた。1402年にティムールはアナトリアに侵攻した。この時点でもティムールは和平の機を伺っていた。しかし、バヤズィト1世からの返書は侮辱に満ちたものであった。ティムールは遂に決戦の意思を決めたのであった。 ティムール動くの報を聞いたバヤズィト1世はコンスタンティノープル包囲を切り上げてアンカラで軍を結集させ、一部を守備隊として残し、残りの軍勢でトゥカトへ向かった。この報を聞いたティムールはバヤズィト1世の裏をかいでアンカラに達したのであった。 7月20日にアンカラの戦いの火蓋が切られた。ティムール軍は、右翼にミーラーン・シャー、左翼には末子のシャー・ルフ、中央にはムハンマド・スルタン、その背後にティムール自身が配置し、全軍の前衛には戦象がいた。一方、オスマン軍は、右翼にセルビアの鉄騎兵が、左翼にはバヤズィト1世の長男スレイマン・チェレビが、中央にはバヤズィト1世自身が率いるイェニチェリが配置されていたのである。両軍合わせて100万もの軍勢が集まったと言う。ティムール軍からは右翼軍アブー・バクルの先鋒隊が襲いかかり、オスマン軍からはセルビア騎兵が襲いかかる。両軍とも一進一退の攻防が続いたが、オスマン側のトルコマン部隊の寝返りが帰趨を決めた。オスマン軍は総崩れとなり、2人の息子とともにバヤズィト1世は捕えられた。ティムールはこれを丁重に遇したが、翌年にバヤズィト1世は失意の内に没した。ティムールはオスマン軍の残党を追討しつつ、ヨハネ騎士団が籠るイズミルを落とした。ティムールはカラマン諸侯に元の領土を返却した。更に、マムルーク朝が正式に、貨幣とフトバにティムールの名を刻むことで恭順の意思を示した。 だが、この間にティムールは戦友のサイフ・ウッディーン、名目上のハーン位に就いていたスルタン・マフムード、そして後継者である嫡孫のムハンマド・スルタンを立て続けに失ったのである。特に最後の2人は帝国の要として重要な人物であったから、打撃は大きかった。
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