アルベローニ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/18 07:07 UTC 版)
「グレン・シールの戦い」の記事における「アルベローニ計画」の解説
アルベローニはイギリスの継承争いに介入、ジャコバイトとハイランド地方におけるジャコバイト支持者に加担し、イギリスの王位を不安定なものにし、スペインにより友好的な王と議会を作ろうとした。 元の計画は2段階あった。 第10代マーシャル伯爵ジョージ・キースがスペイン海兵隊(英語版)300人とともにスコットランドに侵入、西部の氏族を糾合していくらかの土地を占領する。ただし、これはイギリス軍の注目をそらすためのフェイントだった。 第2代オーモンド公ジェームズ・バトラー(イギリスの軍人で、このときはスペインへ追放された)率いる艦隊27隻と兵士7千がジャコバイトの多いサウス・ウェスト・イングランドかウェールズに上陸する。現地のジャコバイトとの同盟が成立した後、東へ進軍してロンドンを包囲、ジョージ1世を廃位してジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを即位させる。 オーモンド公はカディスから出航した3週間後の3月29日、フィニステレ岬で嵐に遭い、艦隊が散り散りにされ、ほとんどの船が損傷した。これにより、オーモンド公はスペインの港へ撤退せざるを得なかった(1588年の無敵艦隊と同じような経緯をたどった)。しかし、マーシャル伯爵はすでにスペインのパサイア港から出発してルイス島を占領、ストーノーウェイで軍営を置いた。1719年4月13日、マーシャル伯爵はハイランド地方のロック・アルシュ(英語版)で上陸するが、この「小蜂起」(Little Rising)に参加するハイランド人が予想より少なかった(スペイン軍は現地民に配る兵器として銃2千丁を準備した)。ハイランド人はこの軍勢に不信感を持ち、南部からの報せを待ったのである。そのため、マーシャル伯爵はインヴァネスに進軍できず、アイリーン・ドナン城で大本営を設けた。 スペインのフリゲート2隻は本国へ戻った。スペイン軍にはマッケンジー氏族の長シーフォース卿、マーシャル伯爵、タリバーディン侯爵ウィリアム・マレー(英語版)、アイルランド人官僚数人が同伴していた。またマッケンジー氏族(英語版)、マックレイ氏族(英語版)、ロバート・ロイ・マグレガーが合流した。数日後、軍勢の大半が南へ向かい、ハイランド人を扇動し、アイリーン・ドナン城には40から50人の駐留軍を置いた。ジャコバイトの軍勢はシーフォース卿、ジョージ・マレー卿、およびキャメロン氏族(英語版)の長ジョン・キャメロン・オブ・ロシール(英語版)が率いており、その目的はインヴァネスの占領だった。
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