アナトリア語派の分化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 04:07 UTC 版)
「ヒッタイト語」の記事における「アナトリア語派の分化」の解説
一部の比較言語学者は、アナトリア語派が他の印欧語各語派祖語よりも早い時期に原印欧語から分かれたと考えている。スターティヴァントらは、「インド・ヒッタイト祖語」を想定して、そこからインド・ヨーロッパ祖語とアナトリア祖語の2つが形成されたと考えたが、この説は一般には認められていない。 2003年にニュージーランド・オークランド大学のラッセル・グレー博士らが、分子進化学の方法(DNA配列の類似度から生物種が枝分かれしてきた道筋を明らかにする系統分析)を応用して印欧語族の87言語を対象に2449の基本語を調べ、言語間の近縁関係を数値化しコンピュータ処理して言語の系統樹を作った。その結果紀元前6700年ごろヒッタイト語と分かれた言語がインド・ヨーロッパ祖語の起源であり、ここから紀元前5000年までにギリシャ語派やアルメニア語派が分かれ、紀元前3000年までにゲルマン語派やイタリック語派が出来たことが明らかになったと主張したことがあった。インド・ヨーロッパ語族の起源として考古学的には、紀元前4000年頃の南ロシアのクルガン文化と、紀元前7000年頃のアナトリア農耕文化の2つの説が有力視されていたが、博士は、以上の結果は時代的にはアナトリア仮説を支持するものであると考えたのである。 ただし従来ヒッタイト人の支配層の先祖は古代のいずれかの時期に黒海東岸ないし北岸方面から南下しアナトリアで非印欧語族の原住民(ハッティ人等々)を同化吸収してヒッタイト社会を形成したというのが通説である。このうち政治的に決定的なものは紀元前2000年ごろアナトリアに移動してきた集団とされたが、北方からアナトリアへの文化の移動の波はこの集団のみによるものとは確定していない。さらにヒッタイトが古い時代から一貫してアナトリアにいたという証拠はない。すなわち、仮に紀元前6700年ごろアナトリア語派の集団(ないしインド・ヒッタイト祖語のうち、後にアナトリア祖語を形成した集団)が他のインド・ヨーロッパ祖語の集団(ないしインド・ヒッタイト祖語のうち、後にインド・ヨーロッパ祖語を形成した集団)と分かれたとしても、後にヒッタイト支配層に発展することになる集団群のほうがコーカサス北麓からアナトリアへ向かって次々と移動していったという可能性は、インド・ヒッタイト祖語仮説やグレー博士の研究によっても否定することはできないことを見逃してはならない。 後にヒッタイト支配層となる集団のほうがコーカサス北麓の「原郷」から南下していったシナリオでは、紀元前6700年という古い時代にコーカサス北麓ないし黒海北岸の原郷からアナトリアへ向かっての一定距離の移動をしたのち、他のインド・ヨーロッパ祖語の集団(ないしインド・ヒッタイト祖語の原郷集団)がコーカサス北麓のどこかで後の時代にクルガンを作る風習(サマラ文化とドニエプル・ドネツ文化。ただしサマラ文化やドニエプル・ドネツ文化、そしてクヴァリンスク文化およびスレドニ・ストグ文化自体が印欧語族の文化であるとは限らないが、この流れを受けたと考えられているクルガン文化であるヤムナ文化は印欧語族の文化であると推定されている。)を始め、これを発展させてインド・ヨーロッパ祖語の社会文化の基盤を形成し、その後この社会文化が周囲に伝播することで複数のクルガン文化群が形成されていった可能性と全く矛盾しない。これは紀元前3700-2500年ごろ黒海東岸から南岸にかけて広く存在したマイコープ文化(のちにアナトリア語派の諸国の支配層となっていった集団の文化と考えられる)の初期および同時代の黒海北岸のヤムナ文化(印欧語族の原郷の文化と考えられる)に共通するクルガンの風習によって裏付けられる。
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