アセンとペタルの蜂起、ブルガリア帝国の再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)
「第二次ブルガリア帝国」の記事における「アセンとペタルの蜂起、ブルガリア帝国の再建」の解説
「アセンとペタルの蜂起」も参照 1180年代にシチリア王国による東ローマ領への攻撃が始まるとブルガリアでは増税と徴兵の強化が実施され、さらに東ローマ皇帝イサキオス2世の結婚に際して特別税が課される。1185年にタルノヴォ近郊のヴラフ人(あるいはクマン人)地主ペタルとアセン(英語版)の兄弟は新税の軽減とプロノイアの付与を東ローマ皇帝イサキオス2世に願い出るが、2人の要求は拒絶された。帰国したペタルとアセンはタルノヴォの聖ディミタル教会の聖別式でブルガリア国家の再興と挙兵を宣言し、ブルガリア人修道士ヴァシリィは年長のペタルを皇帝(ツァール)に戴冠した。 東ローマの統治に不満を持っていたブルガリアの人々は蜂起に参加し、ペタルとアセンは国家の継承性を強調するために第一次ブルガリア帝国時代の首都だったプレスラフ(英語版)を制圧した。1187年の夏にイサキオス2世が北ブルガリアに親征を行うと、ペタル兄弟はドナウ川北方の遊牧民のクマン人の元に逃れた。イサキオス2世の軍はブルガリアを破壊し刈り取った穀物を焼き払った後、解放運動は終息したと判断してコンスタンティノープルに帰還した。同年の秋にクマン人を同盟者としたペタル兄弟はブルガリアに帰国、ドナウ川沿岸部を奪回し、蜂起はトラキア、ロドピ、マケドニアにも波及した。 1188年春にブルガリア軍はタルノヴォに進軍する東ローマ軍をロヴェチで食い止め、3か月にわたる包囲を凌いだ。包囲が解除された後にブルガリアとビザンツの間に和平が締結され、この和約でブルガリアの独立が事実上承認された。和平の際、人質としてペタルとアセンの弟カロヤン・ヨアニッツァがコンスタンティノープルに送られた。
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