アエロポスタル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 09:35 UTC 版)
1920年代、トゥールーズはピエール=ジョルジュ・ラテコエールの推進のもとで、航空産業のパイオニア都市となった。ラテコエールは、カサブランカやダカールへの航空便の中継地の一つとしてトゥールーズを選んだのである。1927年にできたアエロポスタル社は、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリやジャン・メルモーズら有名なパイロットがいた。ラテコエールは鉄道の客車をつくるためにトゥールーズへやってきた。しかし戦争が勃発すると、政府により、モントードランの工業用地で飛行機を製造する仕事を課せられたのである。戦争が終わっても、ラテコエールの飛行機への情熱は残った。彼の客車製造の場所は、その後戦闘機の組み立てラインとなった。彼がアエロポスタル創設という挑戦を決めたのはこの瞬間だった。旧式の戦闘機とともに、ラテコエールはなぜか南アメリカではなく、トゥールーズからダカールへの郵便輸送をやりたいと思った。1920年から1933年まで、ドーラ、メルモーズ、サン=テグジュペリを含む120人以上のパイロットがモントードランの滑走路に向かった。アエロポスタルは、トゥールーズ=カサブランカ間、カサブランカ=ダカール間、トゥールーズ=リオデジャネイロ=レシフェ間といった新しい区間便を開拓した。メルモーズの南太平洋横断飛行の成功後、アエロポスタルはフランス=南アメリカ間便に参入した。アエロポスタルは南米諸都市、時にはアンデス山脈の上にまで、数多くの航空便を開拓した。『夜間飛行』のようなロマンあふれるサン=テグジュペリの執筆は、彼のさらなる名声を約束するものだった。 宇宙開発の最初の一歩は、かつての技師によって始まった。エミール・ドヴォワティーヌ(fr:Émile Dewoitine)は、1920年以降、フロントガラスのついた初の金属製飛行機を生み出した。その後、フランス政府はトゥールーズでの航空機製造を支援した。1939年にスペイン内戦がフランシスコ・フランコ率いる反乱軍の勝利で終結すると、共和主義者が多数亡命した。 第二次世界大戦中、トゥールーズは戦闘にあうことはなかったが、レジスタンス運動が強力に展開した。ドラグーン作戦の直後の1944年8月19日、ドイツの占領軍はトゥールーズから退却した。 1960年代に入ると、大勢のアルジェリア帰国者がトゥールーズに移り住んだ。
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