ほととぎす迷宮の扉の開けつぱなし
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評 言 |
塚本邦雄は歌人である。それも生粋の前衛歌人であることは確かだが、むしろ定型詩人、さらには詩歌人とでも呼びたい広がりのある作品を数多く残した。当然、俳句にも造詣は深く、句集も数冊ある。彼の短歌同様、どれも一筋縄ではいかない塚本調の美学に染め上げられている。俳句の鑑賞も余人の追随を許さない。その代表的精華が『百句燦燦』(1974年刊)である。寺山修二を相手に「よくもこういうひねくれた解釈ができましたねえ、といわれたいために書いている」という笑える言葉を残しているが、その絢爛たる言葉の洪水に浸りたい方は、実際に本書を読んでいただきたい。『百句燦燦』の跋に、次のようにある。 「俳諧の心を識らずして和歌を説くことは無暴であらうし俳句に背を向けて短歌を論ずるのも虚妄に類しよう。この後とも私はこの稀有の最短詩型を最愛の敵として、その一挙手一投足を凝視し続けるだらう」(原文はすべて旧漢字体を使用) 掲句は、不思議なことに、この『百句燦燦』にも収められているのである。さすがに、自作句については鑑賞文ではなく、囚われ人「十時杉穂(とときすぎほ)」なる人物に呼びかける奇妙な味わいの掌編小説が置かれているのだが、なぜ自作句を入れたのか。自負もあるだろう。そもそも開けっ放しの迷宮の扉とは、それこそ俳句の世界への入口そのものを指しているのではないだろうか。和歌で珍重されたホトトギス。そしてここにも子規。ホトトギスに呼ばれて迷宮に入るのは自由だが、あなたに入る資格はあるのかい、入れたとしてもそこから無事に抜け出て帰って来られるかは知らないよ、とでも言いたげに。恐らく、彼は最愛の敵である俳句に捧げた頌歌を堂々と潜り込ませたのだ。謎めいた迷宮の魅力。果たして現在の現代俳句に迷宮はあるのか、と問われているようでもある。 参考:ゆまに書房『塚本邦雄全集〈第四巻・第十五巻〉』 |
評 者 |
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備 考 |
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