その非軍事的効果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 04:22 UTC 版)
カントン制度は純粋な軍事上の貢献にとどまらず、社会の様相にも変化を与えた。その第一は、カントン制度によって王国がその国民を把握できるようになったことである。当時のプロイセンでは、貴族の土地に属する農民は貴族の全面的な支配を受けていて、国王やその官僚はその国民を直接把握することが難しく、王領地以外で実際にその権力が及ぶのはせいぜい郡長までと言われていた。 しかしカントン制度により、それまで農民が移住や結婚の届け出を領主の貴族に行っていたのが、徴兵対象身分の者はその地区の連隊に対して行うようになった。連隊は徴兵可能対象者を限りなく多く名簿に載せようとしたので、徴兵免除者でもしばしば名簿に載り、かつ、連隊はただ徴兵される可能性があるというだけの者でも、その管理の必要性を主張して貴族と争った。そして連隊はつねに貴族の支配を侵食し続けた。 この結果、国の力の及ぶ範囲が拡大し、それまでの国王-貴族-農民という重層構造に変化が生じた。プロイセン国王は軍隊を通じて初めて国民を把握した、と言われる。 第二は、貴族と農民との関係に変化が生じたことである。徴兵者は、帰休制度で畑に帰ったあとも、「国王陛下の兵隊」であるという意識と立場から、それまで隷属していた貴族に対して、しばしば公然と反抗するようになった。というのも帰休兵についてはその連隊に裁判権があったからである。 また徴兵されておらず名簿に登録されているだけの者でも、ことあるごとに連隊が口を出して支配の優越を主張したため、農民はそれを後ろ盾と思うようになり、それまで当然と思われていた貴族の支配力が揺らぐことになった。貴族の相次ぐ抗議と陳情の結果、登録者についてはその優越支配権は貴族の側にあると国王は一応認めたが、現場のレベルではしばしばこのことは無視された。 これらの結果、貴族の地位が低下するとともに庶民の間に、何々という貴族の領民、ではなく自分たちはプロイセン王国の臣民であるという意識が広まった。同時に、彼らはそれまでの貴族の支配に異議申し立てをするようになった。ただしこれとは逆に、地域社会における貴族-農民関係と軍隊における将校-兵士関係は相互に対応していて、農民の所属意識に変化はあったとしても、命令する者と命令に従う者としての役割、身分意識はかえって強化再生産されたとする論考もある。 またついでに、当時フリードリヒ・ヴィルヘルム1世やフリードリヒ大王がすべての臣民に求めた美徳、すなわち勤勉、倹約、忠誠といった価値観が、このカントン制度によって成り立っていた軍隊を通じて人々の間に浸透し醸成され、それが19世紀に「プロイセン人意識」としてドイツ人に知られるようになったという論考が存在することを付け加える。
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